聖域の奈落
静寂に目を覚ました。
薄暗い場所に明かりはなく、物音ひとつしない空間はなぜかひどく恐ろしく感じた。
ここはどこだろうか。
どこかの部屋の中のようだが、ぼやけた視界ではその詳細を確認することはできない。
ゆっくりと目の焦点が定まってゆくのを待ってから、そっと辺りを見回す。
簡素な作りで、寝台の他にはほとんど何も無い室内。壁の高い位置に明かり取りのためであろう格子のついた小さな窓。
その向こうに見える小さな空は黒く、今が夜であることだけはわかった。
反対側に目をやれば、そこには壁の代わりに鉄の格子。
そしてその端に背を向けて立つ見張りと思しき男。
彼女が目覚めたとまだ気付いていない彼に問うまでもなく、自分が格子の「内側」にいる事は明らかで。ああ、捕まったのか、と頭は冷静に現状を把握した。
離れた場所から見てもわかるほどに頑丈そうなその格子は、どう考えても抜け出す事は不可能だろうとも思えた。
次に自分の身体を見下ろせば、予想に反して衣服の乱れや傷は無かった。どころか、腕や脚の小さな怪我にまで手当てをした跡がある。
それを見てぞわりと恐怖が胸を掴む。
ここは一体どこだろう。
唐突に、そして猛烈に不安が押し寄せてくる。
捕まればひどい目に遭う。
今までの経験で嫌というほど学んできたその常識が、ここでは違う。
ささいな、しかし彼女にとっての重要な異常は、胸の内の不安を掻き立てるに十分な材料だった。
奴隷商人も、盗賊団でも、捕まえた女に乱暴こそすれご丁寧に怪我の手当てをするような輩ではない。
もしかしたら自分はとんでもない所にいるのではないか。
思わず勢い良く立ち上がれば、脚に力が入らずにバランスを崩し、音を立てて床に倒れた。
その音に、見張りの男はハッとしたようにこちらを振り返る。
「目が覚めたのか!? 急に立ち上がるのは無理だ。少し待っていろ」
体格のいいその青年は返事を待たずにそう言い残すとどこかへ走って行き、ひとり取り残されたキサラは呆然と彼を見送って、震える手で胸のあたりを掴んだ。
とても、いやな予感がする。
早くここから逃げ出さなければ、大変な事になってしまう。
ぐっと手を握りしめ、息を詰める。
ここがどこで、自分は一体何者に捕まってしまったのか。さっきの見張りは誰を呼んでくるのか。
何一つわからない状況で、キサラはただ混乱するしかなかった。
王都にあがった光の柱と、町中を飲み込むような不穏な気配。
胸を駆け巡る不安に駆り立てられるようにして、街を目指した。
案じたのは他でもない友のこと。
水が欲しいなんてただの建前で、本当は水よりも何よりも、を探していた。
会えない日が重なるごとに大きくなる不安との無事を願う気持ち。
王宮にいる彼女が危険に遭遇するとは考えにくいが、キサラの第六感はそれを否定した。何が起こるかわからないのが世の中だ。
会いたい。会っての笑顔を一目でいいから確認したい。
しかし、その一念で街に出てしまった結果がこれだ。
自業自得としか言いようもなく、これで二度とに会えないような事になってしまえば……
「……どうしよう……」
嫌だ。それだけは。
急に寒くなったような気がして両腕で自分の身体を掻き抱く。
言いようのない恐怖と不安。
嫌なら、自分でなんとかするしかない。
に会いたいのならば、現在を受け入れてはいけない。
過去幾度もそうしてきたように、ありのままを受け入れるほか無いと、周りの流れに身を任せてはいけないのだ。
決意しなさいと頭の中で声がする。
言われるまでもなく、決意ならとうに胸の中にあった。
街を目指したとき、すでに気持ちは固まっていた。
もう逃げない。どこへも行かない。
に会いたい。彼女のいる、この国で、この街にいたい。
偏見と差別の目に絶えず晒されて暮らす事になっても。放浪の旅を続ける事よりも苦しい未来が見えていても。
この街には大切な友が、がいるから。
清潔な室内と、決まった時刻に出される食事。そして丁寧な傷の手当てと医者の診察。
キサラにとってはそのどれもが初めての事で、唐突に変わった環境に戸惑いを隠せずにいた。
最初に顔を合わせた青年は自由に会話する事を禁じられているらしく、街で意識を失っているところを保護されたのだという旨は、毎日やって来る医師から聞かされた。そんな医師も口数は少ない上にどこかぎこちなく、やはり自分は仕方なくここに保護されているのだと実感させられた。
最後に耳に残っているのは人々の罵声や怒声ばかりで、音が遠退いていった後の事は何も覚えていない。
「とにかく衰弱が激しい、今は身体を休める事だけを考えなさい」とは医者の言葉で、最初は立つことはおろか、自分で匙を持つのも困難な程、身体に力が入らなかった。
しかしそれも短い間の事で、今まで生きてきた中で最も恵まれた環境に置かれたキサラの回復はめざましく、数日経つ頃には体調は元に戻り、むしろ以前よりも力が出そうな気すらした。
その頃になってもこの安全で不可解な場所がどこなのかは誰も教えてくれないし、彼らが会話を好まない以上、キサラからそれを尋ねる事は躊躇われた。
自由に動ける柵のある狭い部屋にも、相変わらず見張りは常にいる。
見えはしないが壁の向こうにも人の気配が無いところから察するに隔離された場所にいるのは明らか。もしかしたらこの場所から出してもらえる日は来ないのかもしれない、という不吉な予感に駆られる。
しかし、キサラの体調が回復した頃合いを見計らったようにして迎えの男たちは現れた。
見張りの青年よりもさらに屈強そうな二人の男は、蔑むような目で寝台に腰かけているキサラ見下ろした。
「体調も良いようだな。ここは王宮の神殿内にある病棟だ。お前を保護してくださった神官セト様に深く感謝する事だ」
まるで頭を殴られたような衝撃にキサラはめまいすら感じる。
この場所が王宮と街を隔てる壁の向こう側なのなら、との距離は限りなく近くなったのではないか。
あれほど会いたいと願ったが、近くにいるかもしれない!
希望に震えそうな身体を抑え、ぐっと手に力を込めた。
喜ぶには早い。
体力が戻った以上、今から“外”へ出されるのは確実で、また城壁によりまでの距離は遠くなるのだ。
悔しい。同じ場所まで来れたのに。踏み込めないところまで、入れたのに。
男は見張りの青年にキサラを牢から出すように命令した。
両脇から挟むようにして立たれ、促されるままに足を進め、初めて出た牢の外、ちらりと見上げた空は良く知る晴れた砂漠の空の色。
目線だけで辺りを見て手入れの行き届いた庭の景観を胸に刻みつけた。
今後、もう二度と見ることはないだろう。これが、王宮の中。が見ている光景なのだと思うと胸がいっぱいになる。
砂漠の辺境に生きる自分とは、あまりにも違いすぎる。人の手により計算され、整然と整えられた庭。この場所は、美しい。街よりも、緑と水に守られたオアシスよりも、どこよりも。
ああ、は本当に違う世界で生きているんだ。
ふいに胸に浮かんだ思いに、目が痛くなった。
街へ戻されるという予想に反して、いっそう人気のない方へ地下へ歩かされ、その後地下へと向かう狭い階段に押し込まれた。
人目を憚るようにしてひっそりと開いた暗い入り口に、一歩踏み込んだだけで嫌悪感を催すような淀んだ空気。思わず肌が粟立ち、足を進めるごとに濃くなってくるその空気に、ここは本当に王宮なのだろうかという不安と恐怖に、キサラは胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
王はこの世に現れた神。
神が座す場所に、こんな禍々しい空気の満ちた場所があってもいいのか。
それとも、さっき男が言った言葉が間違いで、この場所は王宮の中ではないのか?
淀んだ空気は重く手足にまとわりつき、見えない重さで身体の動きを鈍らせる。
やがて、重く湿った空気に異臭が混ざりはじめた頃、長く続いた階段が終わって狭い通路に出た。
男たちの持つ小さな火に照らされた地下通路もまた、さっきの階段と同じで終わりが見えない。
時に角を曲がり、右に左にと進み、暗闇に響く自分たちの足音だけを聞いていると気が狂いそうになる。
一刻も早くこの場から飛び出したい。男たちに背を向けて逃げ出したい。
だが、この細い通路を逃げ切れるのか?
例え地上まで出られたとして、その後は?
考えれば考えるほど身動きが取れなくなってゆく。
動きたいのに動けないのは、こんなにもまどろっこしくてもどかしい事だったのか。
唇を噛んだところで前を歩いていた男が足を止めた。
見れば行き止まりには小さな戸が付いていて、簡素な木の戸を通して更に吐き気を催すような空気が感じられる。
自分を連れてきた二人の男を見ればこの不快な空気にも全く気付かない様子で、この不快な匂いは宙に含まれる穢れた気配なのかもしれないという考えに至る。
「神官セト様がお待ちだ」
低い男の声と共に、薄い木の戸が押し開けられた。
とたん、暗闇の中に開かれた口から、腐臭にもにた匂いがあふれ出しキサラは思わず息を止め目を細めた。
一体この先に何があるというのか。
男は神官が待っていると言った。
果たして、神に仕える人がこんな場所にいるのだろうか。
言葉にできない不安と恐怖を受けて第六感は警鐘を鳴らし、踏みとどまろうとする足は小さく震える。
この先に行きたくない。これ以上ここにいたくない。
しかし男に強く背を押され、キサラはよろけながらその戸を踏み越えてしまった。
ああ、もう二度とには会えないかもしれない。
素人でもわかるほど異常な空気に満たされた地下室に入った瞬間、キサラは頭の片隅でそう呟く自分の声を聞いた気がした。
まず目に飛び込んできたのは、床から一段高い場所に座る青年。
端正な顔立ちに厳しい表情を浮かべ、硬質な視線がキサラを捉える。
彼が自分を助けてくれた神官セトなのだと理解する。
青年はすぐにそうとわかる上質な衣服と金で飾られた装身具を身につけており、それらの品々は彼の身分を如実にあらわしている。キサラは反射的に目を合わせないようにして頭を下げた。
本当に、神官がいた。
驚きと混乱に頭がついていかない。
今いる地下室は神が座す場所にあるとは思えないほど歪んだ気配に満ちている。
なのに、ここには神官がいる。
それも、無知な自分が一目見てわかるほど高位の神官が。
神官がいるという事は、この場所は本当に神殿なのだ。
落ち着かない頭でそこまで考えた時、こちらを見下ろす神官の青年が声を発した。
「女、名前はなんという」
表情と雰囲気に違わず厳しい声。
何よりキサラが驚いたのは、自分が口を開く事を許されたという事実だった。
異端の見た目を持つキサラは、奴隷にも等しい身分であり、本来ならばこの神官の前で名を名乗る事すら許されざる事なのに。
驚きにまたいっそう頭を下げて、淀んだ地下の空気を吸った。
「キサラと、申します……」
俯いたまま答えた声は、震えてはいなかっただろうか。
助けられた礼を言ってもいいのか否か。少し迷ってから、キサラは再び口を開く。
「私のような者を助けてくださり、ありがとうございます」
身分が低い相手に対して、尋ねてもいない事まで喋るなと激昂する人種もいれば、助けた礼のひとつも言えないのかと激怒する人種もいる。
この青年神官がどちらなのかはわからない。それでも、助けてもらった恩に礼を言わずにいる事はできなかった。
覚悟していた怒りの声は無く、代わりにすぐそばで聞こえたのはしゃがれた男の声。
「名前などどうでもいいのだよ、娘。地下闘技場へ、ようこそ」
セトの声がこの場にあるまじき高貴さを現しているならば、その声は若き神官とは対極のもの。
暗く淀んだ地下室によく馴染む声にびくりと顔をあげると、醜い男がにやりと嘲っていた。
薄汚れたローブに、しみのできた顔。にやにやと笑う黄色い歯は、いくつか前歯が欠けている。
この男は悪だ、と直感したが、キサラの目を捕らえて離さないのは彼の背後にある光景だった。
地下室のさらに下。底無しに暗く深く開いた底無しの穴。その上に吊るされた簡素で不安定な足場。しかし問題はそんなものではない。
暗闇に浮かぶ足場の上には、身の毛もよだつようなおぞましい化け物が対峙していたのだ。
恐怖に体温が一気に下がり、身体が硬直するのがわかった。
目の前の光景の意味がわからない。
「こ、これは……」
こんなモノがいる場所が、王宮なはずがない。
何かの間違いに決まっている。
言葉にならない声に答えたのは、醜い男だった。
「何を驚いている? この施設の事かな? これは囚人どもの魔物を成長、強化させるためのものだ。もちろん、お前のカーもここでさらに強力なものへと進化させる事ができる!」
誇らしげに語る言葉のただ一点が、キサラの耳につき刺さった。
「私の、カー……!?」
「なぜ驚く? お前も知っておろう。その心に宿した魔物の事を!」
できる事なら、永久に聞きたくなかったし、知りたくもなかった。
同時にかつて浴びせられた言葉が甦ってくる。
お前は災いを運んでくる人間だ。
その言葉は長く胸に留まり続けていた。
実際、キサラが通った後の村や彼女に関わった人々には何らかの不幸が付き物だった。
だからこそ、ひとところに長く留まる事はしなかったし誰かと特別親しくなるような事はしなくなった。
だからこそ、自分と親しくする事でに災いが降りかかるのではないかという不安も、常に胸のうちにあった。
過去に起こった不幸も全て、この身に宿った魔物の仕業だとするならば、いま王都で起こっている災いも自分が関係しているのか。
ここにいたいと、に会いたいと願ってしまったから。
「私は……私は、決して……」
魔物など飼ってはいない。
この心にやましいものなど、何もない。あんなおぞましいもの、私は知らない!
知らないのに!
しかし、不気味な男はキサラを魔物たちの戦う闘技場に出すという。
止めようとする神官セトと男の会話を半ば呆然と聞きながら、最悪の結末を想像する。
身の毛のよだつような化け物に食い殺される少し先の未来。
砂漠で野垂れ死ぬか盗賊に殺されるかして最期を迎えるだろうと思っていた未来に、今まで考えもしなかったパターンが追加された。
悲しいかな、それは今現在最も悲惨で、一番確率が高い。
セトと男の押し問答を遮った第三の男の指示で、キサラは宙吊りの闘技場へ押し出された。
こちらを見る二人の囚人の狂気を孕んだ眼に身体がすくむ。
もやはセトや男たちの声は別世界の音のように遠いところで聞こえていた。
降り下ろされる魔物の牙に、固まった身体はぴくりとも動かない。
今まで何度も命の危機があったが、それでも一度も感じた事のなかった強い思いが、胸を熱くする。
恐怖に支配された頭で、動くことのできない身体で、キサラの脳裏に浮かんだのは、眩しささえ感じるようなの笑顔。
彼女に会いたい。
最期にひとめでいい。に会いたかった。
そう思った瞬間、キサラは恐怖の理由を知った。
化け物でも、死ぬことでもない。
真に恐ろしいのは、二度とに会えない事。このまま彼女の記憶から自分が消えてしまう事なのだと。
私は、に会うために生きていたい。
ただひとつの真実に、キサラはゆっくりと目を閉じた。
今まで自分には生への執着などないと思っていた。
どうやらそれは間違いだったようで、今になって可笑しいほどに強く願ってしまう。
生きたい。まだ、生きていたい。
忌まわしい力にすがってでも叶えたい望みがある。
どうにもならない現状なら受け入れよう。しかし、本当にこの身に棲む魔物がいるというならば、初めての願いくらい聞き入れてくれないだろうか。
彼女は知らない