夜の底にて
闇の深淵に吸い込まれるように消えた王の姿に、ジョーノは身動きが取れずにいた。
ひやりと体温が奪われるような感覚に襲われ、の悲鳴のような声や周囲の叫び声に混ざって、ありえない音を聞いたような気がした。それは目に見えない、けれど今までずっと彼の日常を守ってきた、確かにここに存在するもの。民の、砂漠で生きる多くの人々の、自分を含めた誰もがその衰退を想像もしなかったであろう。
王国が、崩壊する音。
永遠だと思っていたものが、ひどく壊れやすいものだったと知らされるそれは、身も竦むような恐怖を孕んでいる。
どうしたらいいのかも、どうするべきなのかも分らない。
わからないけれど、たちと違って何も見えないけれど、それでもこれだけはわかる。
ファラオはまだ死んでなどいない。この国の光は、まだ失われてはいない。
信じなけれれば。臣下が、そして国民でもある自分達がそれを疑ってどうする。だから、早くあの若い王を助けに行かなくては。
「……行くぞ、」
後ろに乗る幼馴染を見れば、蒼白の顔がジョーノを見上げた。絶望の浮かぶ紅い瞳に、言い聞かせるように続ける。
「ファラオはまだ生きてる。助けに行くぞ」
現に、シャダやセトたちの神官団の面々はまだ絶望してはいない。怒鳴るように配下の兵士たちに指示を出す彼らは、やはり格が違うのだと改めて思い知る。
まだまだ自分達では遠く及ばないと、同じ現場に立って痛いほどその差を見せ付けられる。しかし、だからと言っておろおろしていい理由にはならない。
「行こう、」
彼女に言い聞かせるように。自分を鼓舞するように。
きつく手綱を握って口にした言葉を畳み掛けるように、声は飛んできた。
「貴様らは王宮に戻れ。特に。お前は今すぐにだ」
無意識に背筋を伸ばしてしまう厳しい声はセトのもの。鋭い視線を二人に向けたまま、彼は続けた。
「役立たずがいても足手まといになるだけだ。よもや、それがわからぬ程に抜けた頭でもあるまい」
歯に衣着せぬ言い方は、二人に対して特別ではなかった。何より、彼の言葉は真実だ。
「で、でも、ファラオを探すなら人手は多いに越したことは無いはずだ!」
それでも、でしゃばりすぎだと、生意気は事だと知りながら思わず食い下がってしまったのは、その真実が耳に痛かったから。
当然のごとく、セトは冷ややかにジョーノを見る。
「貴様はの子守りが仕事だろう。ならば今すぐそいつをアイシスの元へ連れて行け。使いこなせないカーなど、今は必要ない」
その言葉に、ジョーノの腕を掴んでいたの手に力が込められる。
必要ないと切り捨てられた彼女は、その言葉に反抗するのかと思った。しかし言い返す声は無い。
代わりに、セトの言葉が続いた。
「、貴様は一体なぜ王宮神官になろうと思った。貴様、真実この王国に、ファラオに忠誠を誓う意思があるのか」
問いは答えを求めていない。
低いその声に、答えることが出来る人などいないような気がした。
「あの瞬間に黒竜を喚んでおいて、なぜ貴様はファラオをお助けする事ができなかった?」
自分ならば、絶対に助けた。それができた。
そう続きそうな言葉に、の瞳が揺れる。
「己の未熟さを言い訳にはさせん。貴様は喚べるのだ。それにも関わらず、あの局面でカーを操ることができなかった。それは、ファラオよりもなお大切だと考える人間を抱えているからではないのか!?」
僅かに大きくなったセトの声。
王宮に仕える者として誰よりも、何よりも優先する存在はファラオでなければいけない。
絶対の忠誠でもってファラオに仕えるのは臣下として当然の事だ。
セトは、誰よりも”そう“だった。
常にファラオに仕える事ができるよう、そのための努力も怠らなかった。だからこそ、彼には言う資格がある。
そして、セトならば絶対に失敗はしなかったのだ。
「すみま、せん……」
ぽつりとこぼれたの声を無視するように、セトは馬を進めた。
「謝罪する暇があれば、さっさと王宮へ行け。ここで貴様にできる事など何も無い。行くぞ、シャダ」
セトの後ろに続くシャダは、労わるような視線をに向け、いつもどおりの静かな声で「今は王宮に戻りなさい」と言っただけだった。
心の中に誰がいるのか。
そう問われた瞬間、目の前でキサラが微笑んだ。
何故王宮を志したのか、何のために神官になったのか。その答えはキサラがいるからだ。
最初は目的なんて無かった。キサラと会って、彼女と親しくなって初めて、自分の意志で王宮神官になろうと思った。
キサラが石を投げられることなく、自分たちと同じように生活できる街に、国にしたい。そのために。変えるために。
今すぐには変わらない。途方もないくらいに時間がかかるだろうが、このまま彼女が街に住むことすら叶わない国でいいはずがない。
だから、シャダの下に配置されたのは好都合だとも思った。
神官団は国の中枢。政治にも深く関わるから。理想を話して、少しでも共感してもらえるならば、何かが変わってゆくかもしれないと思った。
実際はそんな事を話す余裕もあったもんじゃなかったけれど。
結局何もできていない。
キサラは今もずっと砂漠にひとりでいる。
彼女のためにできる事も見つからない。
心に棲む魔物を操ることもできない。だから、バクラを止める事もファラオを助ける事も出来なかった。
すべて中途半端なまま。
何もできない、何も変わらない、何にもなれない、むしろ事態は悪いほうへと転がってきてしまった。
頭が痛い。思考が追い付かない。
ぼやり、ぼやり、水に染料を溶かすように、ゆっくりと視界が濁ってゆく。
白く、黒く、まだらに。
力の入らない腕で、必死にジョーノにしがみついた。
「私……」
かえりたい。
キサラのいる場所に。
何も知らず、ただ彼女と笑いあっていた頃に。
あの頃に戻れるならば、どんなにいいだろう。
王に仕える神官として間違っている。許される事ではないと責められるのだろう。
そうだとしても、なによりも大切なひとがいる。
神よりも、偉大なファラオよりも、さらにその上にキサラはいるのだ。
だからこそ、変わらない願いはずっとこの胸にある。
キサラと並んで陽の光の下を歩きたい。
そんな国に、生きたい。
ただそれだけだったのに、とんでもなく遠いところに来てしまった。
* * *
それは現実というにはあまりに曖昧で、夢というにはとても生々しかった。
世界は闇に塗りつぶされ、そこに自分ともう一人、誰かがいた。
その人の姿は見えないというのに、圧倒的な存在感でもってここに在り、畏怖の念すら抱かせる。その気配は、思わず膝をついて頭を垂れたくなる程で。けれど彼の周囲を圧倒するその人の持っているものは、どう足掻いても神々しいとは呼べなかった。
むしろそれとは真逆の性質を集めてぎゅっと濃縮させたような、そんな気配。
ああ、だからこの世界は闇色に塗られているのか。
ふとそんな答えが出てきて、彼は納得した。
驚くほどにすんなりと、納得してしまった。
王に仕える神官でありながら、闇色の世界に違和感も感じず、さも当然のように納得してしまうような事は、普段の彼ならばあり得ない事だった。
国を守るために家族を捨て、神たるファラオと、その人が統治する国土の平和を祈り続けてきた彼は、誰よりも王国を愛していた。王と国に仕える事こそが、彼の全てだった。
生涯をかけて王国に栄光あれと願う事を誓った彼が闇に染まった世界を肯定する事など、あるはずがなかった。
しかし、この闇の世界の主は問いかける。
本当にそうだったか、と。
姿の見えないその声は、どこからか響く音で彼に問いを放った。
王と国に仕える事を選び、王国の繁栄こそが我が身の幸福と願った、本当にそれだけだったのか?
低く、低く、どこまでも深い地の底。闇の彼方から声は響く。
問いかける音は心地良く、この何も見えない世界で、もしも自分の身体があったのならば、きっと目を閉じて聴いたのだろうと、彼は感じる事のできない瞼を閉じた。
そもそも、その問いに答えるまでもなく、彼にはそれ以外を願った記憶などどこにも無かった。
神に跪き祈ったのは、いつも王と国の事で、そのためだけに生きてきたのだと言っても過言では無いのだから。
けれど、闇の主はその答えに満足はできなかったらしく、なおも問いかける。
彼の全身を包んで響く問いは、まるでゆりかごのように心地良い。ここが本当に闇の世界なのかと疑わしくなる程に。
思い出してみろ、唯一の願いを。叶わなかった希望を誰に託し、何に願ったのか?
そんなもの、言うまでもない。神に願ったのだ。国の安泰を……
本当にそうだったのか? 良く思い出してみろ。国の光を否定してお前は願った。
否定などしていない。
いいやしたのだ。我が子可愛さに、お前は願った。
我が息子を王にしてみせろと、お前はそう願ったのだ。
闇の声はゆるゆると心地良い響きで繰り返す。
お前は願った。叶わなかった己の道を息子に託し、かつて閉ざされた玉座を願った。
国の光である国王を否定したのは他でもないお前自身。そして闇の錬金術により作られたこの宝物に願った世界。それは闇の世界に他ならない。
わずかに残響を残しながら告げられるその言葉は、彼の胸を突いた。
とうの昔にどこかに置き去りにした何かが、暴れだすように彼の中で渦を巻く。
そう、確かに願ったのだ。
奪われた道を、代わりにあの息子にと。
それが何の結末でも構わない。
あの高貴な椅子に座る事のできる血を、あの息子は持っているのだ。
ならば受け入れられても良いはず。彼を、王に。
我が息子を、ファラオに。
それが何の結果でも構わない。ただ、この血を引くセトという青年が玉座につく、その事が重要なのだ。
願いを叶える素材は揃っている。