墜ちる御柱

 砂漠には魔物が住んでいる。
 砂の海に迷った人間を見つけると、捕まえて食べてしまう。
 恐れを知らず砂漠に踏み入った人間を誘き寄せては、ひとくちに飲み込んでしまう。
 そんな恐ろしい目に遭いたくないのならば、砂漠に行ってはいけない。 

 幼い頃から嫌というほど聞かされてきた母の話は、あまり信じていなかった。
 迷い混んだ砂漠の中、が出会ったのは恐ろしい化け物ではなく美しい女神。
 優しく美しい彼女を前にして、そんな言い伝えを信じる事などできなかった。
 それに、幼い子供ならいざ知らず知恵もついてくれば、砂漠に住んでいるのは化け物ではなく、たちの悪い盗賊たちなのだとわかってもくる。

 砂漠に住むのは、人の命や宝を奪う盗賊たち。

 万が一にも辺境の砂漠で彼らに出くわしたならば、生きて帰る事はできないだろう。
 例え命が助かったとしても、女である自分は奴隷として異国に売り飛ばされるか、もっとひどい目に遭うに決まっている。
 だからこそ、砂漠に行くときは細心の注意を払っていた。
 誰にも見つからないように、誰とも会わないように。いちばん安全な道を、いちばんの近道を。
 幸い、がキサラのもとに通うにあたって、盗賊に遭遇する事は無く。
 同時にあの頃、彼女は無意識に感じていた。
 キサラに会いに行くために歩く砂漠は、見えない力に守護されている。
 その守護の力が働いている限り、危険は起こらない、と。
 それでも、いつ現れるかもしれない砂漠の荒くれものは恐ろしく、道をはずれた事は無かった。

 そのため、少し道を逸れればその先に深く大きな谷がある事など、には知る由もなかったのだ。
 目の前に広がる割れ目は深く、人間には大きすぎる巨大な大地の溝は奈落へと続く底なしの闇のようだった。
 光の無い夜の中では、なおさらに。
 暗闇の谷を前にしてやっと、砂漠に棲む魔物の存在を信じてもいいような気になった。
 魔物たちは、夜毎ここから這い出てくる。
 谷の中にはそう言われると否定できない程の闇が満ちていた。
 光さえも飲み込むような深い闇。
 行き着く先の見えない恐怖。
 そこに吸い込まれてゆくのは、他でもない王国の光。

 が追い付く前に、事は起こっていた。
 大国を背負うにはあまりに小柄な身体が奈落の底に向かって吸い込まれていく。
 やっと確認したと思ったファラオの姿は闇の中へと遠ざかる。

 あの方を失ってはいけない。

 何を叫んだのかは記憶に無い。
 まだ遠い王の姿から目を離せなかった。
 目を離さずに黒竜を喚んだ。
 ここに空を走る翼がある。
 黒竜ならばファラオを助ける事ができる。
 黒竜を喚ぶことが出来れば、ファラオは助かるのだ。

 意思の力で精霊を使役できるというのならば、今それができないはずが無い。
 こんなにも、この力が必要になる時が他にあるわけが無い。
 力を願えば黒竜は現れる。何の理由もなくそう信じていた。

 の呼び声に対し、凝縮された夜の闇に一対の紅い光が灯る。
 大きな翼を持つ竜は、しかしそれ以上ぴくりとも動かなかった。
 を見下ろす炎色の瞳は、ちらりともファラオに向けられることもなく、王の姿は一瞬のうちに闇に吸い込まれて消えてしまう。
 悲鳴にも似た叫びが辺りを騒がしく彩る中、黒竜だけが我関せずとでも言いたげにそこに浮いていた。

「……なんで……?」

 黒竜を見上げ、呆然と呟く。
 見開いた瞳には、もう王の姿は無い。
 間に合ったのに。
 この宵闇色の精霊が動いたならば、ファラオを助けることができたのに、どうして。

 何かに駆り立てられるように全速力で走る気持ちとは裏腹に、悠然とそこに佇む巨大な影。苛立ちに似た感情がを包みこんだ。

「なんで……なんで動いてくれなかったの!?」

 やり場の無い怒りは、目の前にいて何もできなかった自分へ向ける物だ。
 それでも、当たらずにはいられない。
 こんなにも自分が未熟で不甲斐ない事をまざまざと見せつけられる日が他にあるだろうか。

「この役たたず!!」

 その怒鳴り声は他でもない、自分に向けたものだった。
 目の奥が熱いのは、何もできない自分が歯痒くて、みじめで、悔しくて仕方ないから。

どうしてうまくいかないのか。
それに答えてくれる人間など、どこにもいない。