目くらましの箱庭
夜の温度に冷えたはずの空気は、街を覆う炎と混乱の熱で熱かった。
本当はいつもと同じ温度だったのかもしれない。しかし彼女には熱く感じた。
街を満たす、何かが焼ける匂いに馴染みなどあるはずも無い。
それを気にする余裕も無いままに、見えない背中を追って裏路地を駆ける。今やとジョーノが知る街は、すっかり違うものへと変わっていた。
焦る気持ちのせいか、知り尽くしたはずの街の距離が異常に長く広く感じてもどかしい。もうすぐ追い付く、もう追い付くと思えば、それがまだまだで余計にもどかしさは増すばかり。
それを繰り返して大通りに飛び出せば、そこに王と精霊の姿を見た。
首から外した千年錘をバクラに向って掲げるファラオと、そして対峙するバクラを狙っているのは互いの使役する精霊。
だめ、いけない、危ない、逃げて。
とっさに思った事はどれも声にならなかった。ただ、言葉にならなかった声を代弁するように誰より早く召喚されたデュオスが、ディアバウンドを攻撃する。
「ご無事ですか!!」
張り上げられた声に、二人の視線がこちらを向く。
安堵を含んだファラオの視線と、忌々しそうなバクラの視線。
夕暮れに似た色の瞳は、憎しみと怒りに染まって敵対するこちらを見る。
睨みあう神官団とバクラ。
その輪の中にあって、自分の存在はなんて無意味なのだろう。この中で唯一、何も出来ない存在。
の不安を見透かしたように、バクラは唇を弧の形に歪めた。
「神官団の皆々様がお揃いとは、大層な事で。……ああ、違うか。ひとり足りねぇんだよな? 俺様が始末してやったからよぉ!」
嘲笑うような声に相づちを打つように、その胸元では千年リングが鈍く炎の光を反射する。
かつて燦然と輝いていたはずのそれは、まるで全く違う物のように、不吉の象徴だとでも言わんばかりにバクラの胸に収まっていた。
「で? あの生意気な神官の代わりが、そのろくに使い物にもならない見習いか? 俺様もなめられたもんだなぁ!」
使い物にならない見習い。
屈辱的な言葉に奥歯を噛み締めてバクラを睨む。
言われずとも、誰もが知っていた。
精霊を見る事ができないジョーノでさえ気付いていた。
今、この場では何の役にも立たない。
「黙んな」
バクラが口にした事に偽りは無い。それでも言われっぱなしでいる事が耐えられず、は低く口を開いた。
「そんな無駄口きけるのも、最後だよ。あんたは今ここで捕まるんだから」
「俺様を捕らえようってのか? お前が?」
冗談を聞かされたように笑うバクラは、三人の神官団に囲まれても闘志を失ってはいないらしく、反対に戦意が上がっているようにも思える。
その彼の表情が、瞳が、声が、憎くて仕方ない。
王宮や街をこんなにぼろぼろにした。傷ついた人は数えきれない程、そこかしこにいる。
今夜の被害は甚大だ。
バクラを捕らえる。その事にもう彼の生死は関係ない。
生きて捕らえられても、きっとすぐに処刑されるのだ。
間違いの無い未来。物騒な結末。
バクラの犯した罪を考えればごく当然の事で、その結末を否定する気にはなれなかった。
今はただ、目の前の男が憎くて仕方ない。
王宮からここまでに通った道は、濃密な血の匂いを孕んでいて。
バクラひとりがいなくなる事でその全て元に戻るのなら。
いや、たとえ戻らなくても。戻らないからなおさら。
あなたが消える事で償ってよ。
この場にあって、その言葉を否定する人間がいるとは、には到底思えなかった。
非情だとか、人として間違っているだとか。
平時に当然のごとく言えるであろうその言葉を、今まさに口に出来る人間は、きっともうこの街にはいない。
できるもんならやってみな。
吐き捨てるような言葉と共に身を翻したバクラは、再び駆け出す。
闇に溶けたディアバウンドに呼応するように、バクラの姿もするりと夜の空気に溶けた。
彼には、そして彼の精霊には夜の闇が良く似合う。
夜という時間そのものが、盗賊を名乗るバクラに味方しているようにも感じた。
こちらには神がついているにも関わらず、いっときは消え失せていた不安や恐怖の感情が小さく笑いながら胸の中を動き回る。
しかしファラオは違った。
もう十分に戦ったはずの王は、そんな余力などとうに尽きているはずなのに、誰より先に馬を駆る。まだ若い彼の姿は、正義と勇気に満ちている。
真っ先に馬を走らせたファラオを、数秒遅れで追う神官たち。
誰よりも消耗しているはずの王に、これ以上の余力が無いのは明らかだった。
「、ファラオを止めたら王宮までご一緒するのだ。バクラは我々が追う。ファラオにこれ以上無理をさせてはならない……!」
「はい、シャダ様!」
街を抜け、砂漠の中へと続く道を駆ける。
しばしばキサラに会うために砂漠へ出ていたが、今バクラを追う景色は見覚えのある道。
砂漠の辺境へと続く、普段は人通りのほとんど無い道。
嬉しさと楽しさに胸を踊らせて通った場所は、今や怒りと憎しみに支配されている。
王宮に抱かれた街と、キサラのもとへ繋がる砂漠。
かつての知り得る全ての世界だった優しい場所は、がらりとその空気を変えて彼女たちを見守っていた。
とても広かったのだと知った。