暗く燃える夜
周囲で慌ただしく動く兵士をよそに、ジョーノは前を睨みつけて走っていた。
元の同僚との語らいは、盗賊バクラの襲撃があったという知らせで打ち切られ、慌ただしく各々の持ち場へ散ってゆく彼らを見送った。そして彼の目に写ったのは、空に昇ったひとつの光。
時をおかずに聞こえた悲鳴が、前線はただ事ではない状況にあるらしいと告げる。
背筋を伝う冷や汗に、を探せと本能が叫び、彼は駆け出した。
何が起こったのか、正確に知る事のできる伝達は来ない。
ただバクラが襲撃してきたという事だけが、確実に言える事で。
マハードはバクラを葬る事が出来なかったのだと思うと、ぞっとするような感覚が走った。
神官団のひとりが、たかが盗賊に敗北したのだという事実は彼に恐怖を与えた。
「何が……」
呟く声は喧騒に掻き消される。だからこそ、誰にも聞かれない声を零した。
「何が起こってんだよ……!」
誰も教えてくれない。
ただ、今までに無かった事が起こっているのだという予感は確かにあった。これから、王宮だけでなく、国を巻き込んでとんでもない事が起こるのではないかという不安も。
決して頭の回転がいい方ではないけれど、ここしばらくの出来事を見ていれば嫌でも気付いてしまう。
この国は、自分は、何か得体の知れないものを相手にしようとしているのではないか。
その得体の知れない何かは、盗賊の王を名乗る男かもしれないし、良く知る幼なじみかもしれない。
どちらにせよ、自分の生きてきた常識の通じないモノである事に変わりは無く。
未知のものへの恐怖をふり払うように前に動かす足を止めたのは、耳によく馴染んだ声。
「ジョーノ!!」
高い声と共に目の前に飛び出してきたのは、馬に跨がったシャダと。
慌てて足を止めて見上げた馬上のは、顔も手足も泥に汚れた上に小さな傷が目立っていて、思わず目を見開いた。
「お前……それ……」
場違いと解っていて、幼い頃に年上の少年と取っ組み合いの喧嘩をした彼女を思い出す。その時も、確かこんなふうに泥だらけの傷だらけになったは、彼女の母親に酷く叱られていた。
しかし今はそこまでして喧嘩をする相手がいるはずも無い。何かあった事は言うまでもなく、ジョーノは問い掛ける言葉も見つからないまま、馬の上のシャダとを見上げるだけ。
そんな自分は、とても間抜けで、かっこわるい。
そう思った時、シャダが腕を上げた。
「ジョーノ、馬に乗るんだ。バクラを追う!」
湖の瞳の神官が指した先には、二人の乗る馬に付き従うようにして一頭の馬がいて。
「はジョーノの馬に」
シャダの言葉に頷いたが馬から飛び降りて彼の腕を掴む、その力がジョーノの思考を引き戻した。
「行こう、ジョーノ」
力強い声に反射して手綱を取り、差し出した手。それを掴んだ細い手の主はひらりとジョーノの後ろに飛び乗る。
「しっかり捕まってろよ……!?」
「あんたこそ、落としたらただじゃ済まないからね?」
シャダの背を追う馬の上で、背中から回された腕に軽く力が入る。
ちらりと落とした視線の先、やっぱりの腕は汚れて傷だらけで、見ているこっちが痛々しい。
思わず目を逸らしても、目に入ってくるのは無残な破壊の痕跡で、風を切る音の中に混ざる音は馬の蹄の音と遠い悲鳴、そして怒鳴り、叫ぶ声。
闇を掻き乱す喧騒は、王宮を駆け抜けて街にも及ぶ。空に反射する朱の光は、眠りに就こうとしていた人々を容赦なく叩き起こす。
シャダを追い城門へと向かうごとにひどくなる惨状。昼の熱とは明らかに違う熱が辺りに満ちて、むっとするような匂いを孕む。それが何なのか、疑問に思うよりも先に彼の目は答えを見つける。
飛び散った赤と、その中に沈む…………
空気に満ちた匂いが何なのか、それを知った瞬間にくらりと目の前の景色が遠ざかった。
空気を吸う、その行為すらしてはいけない事のように思えて、息を止めた。ぞわりとするものが背骨を駆け抜けて、心臓を掴んだ。
目を、閉じたい。
眼前に広がる無惨な光景を締め出したい。見たくない。
目の前の光景に自分の最後の姿を重ねて想像して、身体が固くなるのがわかった。
そんな最後は、嫌だ。
「ひっ……!」
悲鳴を喉で押し留めたのは、回された腕の力がぎゅっと強まったから。
「ごめん、ジョーノ」
謝る声は、背中ごしに言う。
「シャダ様を追いかけて……まだ、やめないで……」
気丈な声。けれどジョーノは知っている。その声が震えている事を。
そして、の言葉に返事をすれば、自分の声は彼女以上にみっともなく震えているのだとも。
そんな声を聞いたら、は笑うだろうか。
それを考えるより先に、彼は手綱を握る手に力を込めた。
後ろにいるのは、驚くほど小さくなった幼なじみ。もう、二人とも子供じゃない。
守ってもらう非力な子供だったのは昔の話。
今度は、自分が彼女を……
幼なじみに抱きつく腕に力を込めて、前を睨みつけた。
自分にもっと力があれば、もっとうまく精霊を操る事ができれば、ジョーノに頼ったりしない。彼に、こんな事をさせたりしなかった。
圧倒的な死の満ちる王宮。そんな場所を駆ける事を彼に頼んだりしなかったのに。
美しいはずの王宮は、今や血生臭い戦場さながらの有様で、一体誰がこんな事になると予想できただろう。
胸の中では、灼熱の風が渦を巻く。
どうやらこの不吉な血の匂いを好むらしい黒き竜は、主の恐怖とは裏腹にひどく悦んでいるようだった。
おとなしくしなさい。
言い聞かせるように胸の内で呟いて、血に染まった空気を追い出すように息を吐いた。
黒竜が喜ぶだけだと解っていて、悲惨な光景を目に捉える。
馬を操るジョーノは、目を逸らしたくともできないのだ。ならば後ろに乗っているだけの自分が目を逸らしてどうする。
シャダも、ジョーノも見ている。自分だけ目を逸らしてはいけない。
身体じゅうが強ばるのを感じた。馬に揺られたまま、ジョーノにしがみついたまま、石になってしまうのではないかとすら思える程に。
腹の奥が気持ち悪い。
大丈夫、とごく小さく呟いて空気を吸った。
その時だった。
背後の王宮のさらに奥、そこから溢れ出す巨大な気配。
目に見る事のできない重量が世界中に満ちて、収縮して姿をとり空を駆けた。
思わず見上げた空の上、炎の赤を映す空を滑るように駆けてゆくその影が何なのか。誰がその影を呼んだのか。問われるまでもない。
神殿から呼ばれる最上級の精霊。それは精霊ではない、神だ。
ファラオだけが呼ぶことを許される、神。
「神が……来た……!」
畏れに全身が打ち震える。今自分が視たものは、神なのだ。
それは、許される事だろうか。
破壊を望む精霊を胸に飼う自分に、それは許される事なのか。
暗い空が昼の色に染まるような気がした。空に反射する不吉な赤がかき消され、軽やかな昼の色が全てを塗り替えるような予感。
神ならば、それができる。現人神であるファラオならば、この王宮を、街を救ってくれる!
巨大な竜の姿をしたそれは、の黒竜とは全く違った。
冒しがたい神聖な空気を纏い駆けていったそれは、一瞬のうちにたちを追い越してゆく。
今にでも跪いて祈りたいのを堪えて、彼女は叫ぶように言った。
「ジョーノ、ファラオが動かれた! 神が喚ばれたわ!! これでバクラを捕らえる事ができる!!」
神の降臨。
確かな希望が呼ばれた事に、胸が軽くなるのを感じた。
これで平和は戻ってくる。
その想いを代弁するかのように、前方を走るシャダが振り返り叫んだ。
「、ジョーノ、ファラオをお守りする! 急げ!!」
その声に大きく返事をすると、二人の乗る馬の速度はさらに加速した。
城門を飛び出して見た城下の景色は、が今まで見たことのあるそれとは明らかに違っていた。
暗い空と赤く燃える炎を背景に、街の上で戦う二つの大きな影。
誰もが見える訳ではないその二つの精霊は、街の上で戦いを続け、その近くにファラオがいる事は明らかだった。
街を破壊しようとするバクラの精霊の攻撃をその身で受ける神の姿に、は顔を歪めた。
天空の神が防ぐ事のできなかった攻撃は容赦なく街を襲い、夜の街はいとも簡単に破壊されてゆく。
何も見えない人々は、訳も解らないまま家を追い出されている。
「街が……」
「おい、何が見えるんだ。……俺には何も見えねぇ……!」
ジョーノの声には戸惑いと明らかな怒りが浮かんでいる。
彼にはこの光景はどう見えているのだろうか。ディアバウンドもオシリスも見えない上に、何もない所が急に破壊されているようにしか見えないはずだ。
彼の背中からは、自分で認識する事のできない苛立ちがはっきりと伝わってくる。
「……バクラの精霊と、ファラオの神が空で戦ってる。バクラは街を攻撃してるわ……神が街を守ってるけど……」
「じゃあどうして街は破壊されてるんだ!?」
「神は自らディアバウンドの攻撃を受けてる。このままじゃあファラオのお命が危ないの! いくら神とは言え、オシリスも精霊なのよ。そのダメージはファラオにも直接繋がってるんだから! シャダ様もそれに気付いてるはずよ……だから今急いでらっしゃる」
強い力を持つ精霊になればなる程、消費する力は大きくなる。それが神ともなればどうなるのか。
想像するまでもない。神を呼ぶだけでもバーの消費は普通の精霊に遠く及ばない。
その上ディアバウンドの攻撃を受け続けていれば、ファラオの身体が長く持たない事は明らかだ。
早くファラオのもとへ行かなければ。そして、街を守らないと。
この城下は、自分たちが育った街。それをこうも無残に破壊されるのは、許せない。
「ジョーノ、シャダ様について行ったんじゃ遅すぎるわ。最短距離、裏路地をオアシス酒場の方に行って!」
「任せろ!」
間髪入れずに返ってきた頼もしい声に、はにやりと口角を上げた。
城下街は自分達の庭だ。どんな時、どんな路地を行けば一番早く目的地へ行けるのか、どこに何があるのか。
身体に染み込んだ感覚と記憶はたった一年そこらでは抜けない程に頭の中に記録されている。自分だけじゃない。それはジョーノも同じ
「シャダ様、こっちです! 近道します!!」
声を張り上げれば、頷いたシャダがとジョーノの後に続く。
振り返っては尋ねた。
「神は……ファラオは大丈夫なんですか!?」
「わからない……しかし、あの状態が長く続いていい筈が無い。一刻も早くファラオのもとへ行かねば!」
「他の……セト様たちは!?」
「案ずるな。もうこちらへ向っているはずだ。すぐに彼らも追い付く!」
張り詰めたシャダの声に続くように、背後から蹄の音が近づいてくる。
夜の風は静寂を失って、不吉な匂いと悲鳴に塗りつぶされた。空では恐ろしい怪物と気高い神が戦い、地上では人々が恐怖に逃げまどっている。
鮮明に届くその蹄の音は、それでもの胸に確かな安心をもたらした。
シャダのさらに後ろ。夜の闇を切るようにしてこちらへ向ってくるのは、間違いなく神官団の――
「カリム様! セト様!」
思わず叫んだ声に、シャダとジョーノも背後を見やる。その表情がわずかに和らいだのは決しての見間違いではなく。
街を飲み込む炎に照らされた二人の神官の姿は、何よりも心強い援軍だった。
長い夜はまだ、始まったばかり。