闇を連れ、闇に喰われる
彼に異変を告げたのは、ざわつき始めた王宮の空気と、足元が揺らぐような目眩。そして胸に響くのは、陶器の器が割れるような音。
何が起こったのか。
それを考えるよりも先にの出ていった先を見た。
理屈でなく、感覚で彼女に施した封印が破られたのだと理解する。
それが意味するのは、黒竜の暴走。もしくはそうならざるを得ない状況がの身に降り掛かったのだと言うこと。
反射的に外へ駆け出し、空へ昇った炎の球を認めるのとほぼ同時に、駆けてきた兵士が膝をつき、張り上げるように口を開いた。
「石板の神殿にてアクナディン様がバクラに襲われました。現在王宮を逃走中との事です……!」
瞬間、遠く聞こえるざわめきと、の封印が破られた理由がぴたりと繋がる。
バクラが、再び王宮に現れた。奴は、生きていた。マハードの命を奪い、更にアクナディンまでもを狙った。
ふつふつと沸き上がる不安と怒り。シャダは拳を握り締めた。
「何だと……!? アクナディン様の様子は!?」
早足で歩きながら空を睨む。
がバクラと遭遇したのは間違いないと確信し、ならは彼女がまるきり無事だとは思えない、と目星をつける。
は、一人前と呼ぶには心が未熟すぎ、半人前と言うには秘めた力が大きすぎた。
そんな彼女が、マハードさえ適わなかったバクラを相手にしてまともに戦える訳が無い。何よりには、実戦経験が皆無だ。
だからこそ、神官団の中でも最年長であり、数多くの戦いを経験してきたアクナディンがバクラにやられた。
その事実が、シャダの背をひやりと駆け抜ける。
アクナディンがバクラに負けたのならば、その敗因は……
「今セト様が向かわれた所ですが、まだ解りません……王宮は混乱しています……!」
「逃げたバクラは誰が追っている!?」
逃走中だと兵士は告げた。
なら、王宮を出る前に捕らえる。
ここは、自分達の庭だ。兵士たちも神官たちもこの場所の事は一番知っている。勝機は今しかない。
「それが……兵士が次々と切り裂かれていきまして……奴のカーは先日よりも確実に成長しています……!!」
「なんだと……? バクラが街へ逃げる前に何としても捕らえるぞ!! 万一のために馬の用意を!」
走るように王宮の中を移動しながら、指示を出す。
「城門を閉じろ! 松明を燃やして闇を払え! バクラのカーが闇に溶けるのを阻止しろ!!」
言いながら、シャダは沸き上がる不安を拭う事ができない。
もし、今の報告の通りにバクラのカーが成長しているとして、果たして止めることが出来るのか。
あの日、ファラオが神を召喚しても捕らえる事のできなかった盗賊を、しかもマハードを倒した男を、捕まえられるのか。
バクラの宿す魔物は狂暴にして凶悪。一人前の神官の中にもあれ程の精霊獣を宿す者が何人いるだろう。
知らず表情は固くなり、握り締めた手に力がこもる。
があと五年、いや、三年でも早く王宮にあがってきていれば希望もあっただろうと思わざるを得ない。もっと時間があったならば、彼女を一人前の神官に育て上げたものを。
「は……彼女はどこだ……?」
低く尋ねると、報告に来ていた兵士は困ったように首を振る。
それどころではないのだと理解した上での問いに、はなから答えなど期待してはいなかった。ついさっき、炎の球が上がった方向に目をやる。夜の闇に酷く映える炎が昇った辺りは、何も無かったかのように沈黙を放っていたが、それが見せかけのものだという事は明らかだ。
シャダは兵士を見やり、高く言い放った。
「私はを連れて合流する。とにかく明かりを絶やさないように伝えるんだ。いいな!?」
重ねて伝え、走り戻っていく兵士とは別の方向に足を運ぶ。
王宮では走らないように。
日々厳しくに言い聞かせていたのは自分だが、今はそれすら守る気にはなれない。
事は一刻を争う。
盗賊バクラは重罪人だ。それも極めて危険な。
彼を捕らえることは、国を護る事に繋がる。バクラの刃がこれ以上の犠牲を出す前に終わらせる。
王宮に仕える人間だけでない。全ての国民への被害も、最小限に食い止めるのだ。それが、神官団の一員としての役割。
同時に、の無事を案じる。
師として、シャダにはの身の安全を保証する義務と責任がある。安全なはずの王宮で、それは普段意識しない事だったが、今は違う。
弟子を守る事も、師匠の役目だと、シモンは言った。かつて、彼がシャダの師としてそうしてきたように。
それが弟子の無謀からきた結果であれ、何であれ、師匠という立場にある以上はその責任が伴う。
が、己のカーにより危険に晒されても、それは例外ではない。
回廊を走り、中庭の一角を目指す。
一定の間隔を空けて配置された松明が、シャダの影を伸ばしては縮めた。それは、灯りに近付くとわずかに和らぐ負の感情をそのまま象徴しているようで、自分の足から伸びる影を見ないようにして、シャダは走った。
何事もなければいい。
限りなくあり得ない事だと知りながら、そう願う。
そして、視界に飛び込んだのは、荒れた中庭と、そこにうずくまる小さな背中。
松明の灯を受けて俯く弟子に向かって、声をかけた。
「!」
名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げるの傍に膝をついて、無事を確認するように紅い瞳を覗き込む。
「大丈夫か、」
その問いに、土に汚れた顔が苦しげに歪む。
「シャダ様、バクラを……!」
小さな傷のついた手足に、擦れた声。何が起こったのか、それを問うまでもない。
シャダの不安までもを映したように揺れる瞳に、大丈夫だと言い聞かせるようにひとつ頷いた。
「バクラの方は案ずるな。何とかなる。……それより、黒竜はどうした?」
出来るだけ優しく言ったつもりだが、それが上手く反映されているかは、我ながら保証できない。
答えを急かしたいのを抑え、の返事を待つと、乾いた唇がゆっくり開いた。
「竜は……黒竜は、私の中に戻っていきました……ごめんなさい、シャダ様……」
「戻った?」
繰り返した言葉には頷く。
「黒竜を、従えました。多分、成功しました。けどシャダ様、私は正しかったんですか……?」
正しかったのか。
その問いと共に伸ばされた手が、シャダの服を掴んだ。
縋るように見上げる瞳に正しい答えを与える事もできずに、シャダは口を閉ざす。
元より二人を繋いでいたのは、間違いだらけの弱い糸。
シャダの施したカーの封印から始まった師弟関係を、誰が正しいと言うだろう。その封印すら、許されない呪術だというのに。
本来ならば、もっと違う形で取るべきだった師弟の誓いを、彼女と、そして彼女のカーである黒竜を守るという名目で結んだ。
正解なのか。
何度となく自分に投げ掛けた問い。
答えは全て終わらなければ解らない。
けれど、には今必要なのだ。
黒竜を従えた事の是非。
その答えが。
自身が秘める精霊の危険性。それを説いて聞かせたのは、他でもない自分だった。
彼女の意志によらずとも、とても大きな力だと言う事。
それ故に、黒竜が極めて危険である事。
セトは彼女を否定した。
が未熟だったが故に。
だから、自分はそんな彼女を導こうと決めた。
の秘めた力は未知数で、セトのように切り捨てる事は簡単だが、辛抱強く育てていけば、必ず何よりの戦力になると感じたから。
かつて、シモンが操ったという魔神のカーが国を護ったように、と黒竜が国を護る日が必ず来るだろう。
アイシスのような予知の能力は無いが、彼の第六感は告げていた。
を一人前に育てれば、黒竜の飛び抜けた力で国を護ってくれる。
この王国が、安泰でいられる。
ならば、が黒竜を従えたという事実は、喜ばしい事ではないか。
一刻も早く黒竜を操れるだけの力を身につけて欲しいと願ったのは、他でもない自分なのだから。
「よく、やった……」
噛み締めるように言って、服を掴むの手に触れた、その時だった。
触れた指先から走る、身体を貫く衝撃。目の眩むような一瞬の感覚と共に、目を上げればの背後にたたずむ巨大な影。
その紅く輝く一対の眼が、シャダを見下ろしている。
次にあの竜が現れた時は、喰い殺されるかもしれないな。
かつて自分で言った言葉がシャダの脳裏をよぎる。
怒れる黒竜の瞳は、無言のままに告げていた。
『お前を許さない』
それは、野性の獣が拘束を嫌うのと同じ事。黒竜にとって、シャダは自分に害をなす物になった。
拘束から逃れた黒竜が、の制御も振り切った時。それが自分の終わりの時だと、半ば確信に近い予感。
真っ先に黒竜が襲うのは、国の敵でも、の敵でもない。黒竜の敵だ。
それは他でもないシャダ。
外の世界を夢見た漆黒の翼を、重い鎖で封じた神官。
ごくりと、唾を呑んだ。
が心配そうにシャダを見ている。
黒竜の意志は、必ずしもの意志と一致する訳ではない。
それでも一瞬、恐怖が頭を支配する。
彼女が、とても恐ろしいモノに見えて、寒気を覚えた。
「シャダ様、どうかしましたか……?」
彼を現実に引き戻したのは、控えめなの声。
いつもより気弱な赤い瞳は、偽りなく心配の色を浮かべてシャダを見る。その瞳の、黒竜と何と違う事か。
詰めていた息を吐いて、シャダは何でもないと首を振る。
「私よりも、自分の心配をしなさい。お前の方がよほど怪我人のようだ」
泥の付いた顔と手足。小さな傷から滲む血と、そして一番目につくのは、右の手首。
「手は、大丈夫なのか……?」
乾いてはいるものの、こびりついたどす黒い色は血液に違いなかった。
窺うようにを見れば、彼女は歯を食いしばり自分の右手を見ていた。
「……これは、私の血じゃありませんから……」
ぽつりと言って、は唐突にシャダを見上げた。
「シャダ様、バクラを追わないと! 早くしなきゃ、あいつは何をするか解らない……!」
シャダの服を掴む手が白くなる程に力を込めて。
「バクラを捕まえないと! これ以上誰かが犠牲になる前に……早くあいつの目を覚まさせて下さい……!」
「……」
必死の表情を落ち着かせるように名前を呼んで、小さな子供にするように、微かに震える頭に手を置いた。
「バクラを追うぞ。立てるか」
低く紡いだ言葉に目を見開いて、まだ未熟さの方が目立つ弟子は驚いたように答えた。
「い、いいんですか……」
私も、一緒に行って良いのですか。
なぜ、それを否定できるだろうか。
「力量の差から見ても、バクラを捕える事が出来るのは、我ら神官団のみ。お前は私についてきなさい。……大丈夫だな?」
「丈夫なだけが取り柄です! 私はシャダ様にお供します!」
間髪入れずに答えたは、確かな力を込めて立ち上がる。
供をすれば、もう戻れない。
神官団の戦いに参ずると言う事は、知らなくともよい所にまで踏み込む事。
その覚悟があるのか、と。
の瞳はその問いを無言のままに受け入れていた。
彼女の伸ばした手を離さない。