紅き唄を奏でる
覗きこんだ瞳に、隠しようのない恐怖の感情を見つけ、バクラはにやりと嗤った。
の眼は、相変わらず彼の記憶と同じ、血の色をした宝石のようで。その血色の輝きを「綺麗だ」と思う心が疼いた。
かつて、何度思っただろうか。
の、まるで血を集めて溜めたようなその瞳を、彼女ごと壊してやりたいと。
けれど、その衝動を押し留めていたものは、とっくに無くなった。
が王宮に仕える神官になったと聞いた時、これで遠慮なく彼女を壊せるのだと。その瞳と同じ色に彼女を染め上げる事が出来るのだと、思わず笑いがこみあげてきた。
それは、悦びだ。
心の奥深くに隠していた願いを叶えることができるという、かつてない悦び。
そしてが息の詰まるような紅に身を沈めた時、忌まわしい過去を思い出させるものが、またひとつ減るのだ。
の腕を掴む手に力がこもる。
さあ、どうやって彼女を染めてゆこうか。
それを考えるのは、あの生意気な魔導神官を相手にするよりも、俄然面白いし、実際紅に染まったを見れば、今までになく心が昂ぶるだろう事は容易に想像できた。
そして彼女に顔を近付けた時、見開かれた瞳に灯った輝きが明らかに変わった事に気に付く。
松明の灯を反射する気丈な眼は、まるで本物の紅玉のように無機質に輝き、焦点のずれた光がバクラの頭の向こうを見ている。
その意味を考えるより先に、身体が反射するように手を離しから跳び退いた。
やばい。
久しく感じた危機感に、小さく舌打ちをして、彼女を睨み付けた。
空気が熱を帯び、渦を巻く。今は夜だというのに、まるで昼間のような焼ける温度。
ふわりとの漆黒の髪が浮いて、彼女の背後に夜よりもさらに黒い影が現れた。
その男を許せないなら、私が力を貸そう。
その声は、何より鮮明に頭に響いた。どくん、と胸が大きく鳴って身体が熱くなる。
滲んだバクラの顔の代わりに、目の前には漆黒の竜が現れ、竜の深紅に輝く眼がを見ていた。
本能で黒竜が自分のカーである事を悟り、は首を振った。
力を借りる事はできない。
何の為にシャダが黒竜を封じたのか、それはのため。まだ、その時ではないのだと。
未熟な力は周囲を巻き込む。
破壊をもたらすために、力が欲しいんじゃない。
守るための力が欲しいのだ。
それを笑うように、黒竜は言った。
何故、拒否する。私はお前の力。お前の心。お前が自分の力を使うのに、ためらう必要があるものか。
そうじゃない。
そんな事じゃないのに。
しかし伝えたい事はうまく形にはできず、ただ頬を撫でる灼熱の風を感じた。耐え難い熱を孕んだその空気の温度は、不思議な事に酷く心地よく。
私に任せなさい。
そう告げた黒竜の意志がの中に溶けてゆく。
駄目だと固く目を閉じた心が熱く燃える。
あの男を消し去るのだ。
そうじゃない。
彼を殺せ。
望んでいない。
その血は、甘い匂いがする。
違う。
きっと心地良い。
そんな事は無い。
心と体を巻き込んで駆け巡る破壊の囁きと、それを否定する自分。耳を塞いで目を閉じても、心の声は締め出せない。
精霊を従えるという事は、この声と、理由の解らない破壊の衝動を押さえ付ける事なのか。
だから、心を静めろとシャダは何度も言い聞かせていたのか。
何も解っていなかった。
この黒竜は、こんなにも強い力で心を喰らおうとするのに、何故今まで気付かなかったのだろう。
こんなに激しく破壊を望む力を、どうして従える事が出来ると思ったのだろう。
今なら解る。
シャダがこの精霊を封印した理由が。
ごめんなさい、シャダ様。
私にはまだ、この精霊を従える事が出来ません。
予想外だった。
灼熱の風に煽られながら、バクラは黒竜を見上げる。
目の前に立つ漆黒を纏った竜は、どう見ても一人前ですらないが持つには相応しくない。
それが石板から召喚されたものではないのは、見るからに明らかだ。この黒竜は、の心に棲んでいるに違いない。
闇と影を支配する、この精霊のように。
「ディアバウンド!!」
バクラの呼び声に答えるように夜の闇が歪む。影の咆哮と共に、彼の精霊が現れた。
「そのご立派な精霊ごと、テメェも切り裂いてやるよ!」
命令を下すまでもなく、長く共に歩んできた精霊は黒竜に向かう。
そしてそれに反応するように、黒竜が翼を動かした。
空気の温度は更に上昇する。呼応するように大きくなる松明の炎。
の輝く瞳は、意識があるようには見えず、黒竜が彼女の意志で動いているようには見えない。
精霊の力に呑まれているのは明らかだ。
精霊を従えるだけの力量が無かった事を悔やむがいい。
ディアバウンドの鋭い爪が黒竜に振り下ろされる。それを受けとめるように、黒竜の口が淡く輝き、その中で炎が躍った。
灼熱の風よりもさらに熱い炎が走り、松明など必要の無い光が辺りを取り囲み揺れながら彼らを照らす。炎が光を強くし、比例して影がより濃くなる。
二度目の舌打ちをして、と黒竜を睨む。
これは、目立ちすぎる。
元々彼女を見つけたのも偶然だった。さっさと片付けて立ち去るつもりだったのに、これでは衛兵に見つけてくれと言っているようなものだ。
異常な熱に、明るすぎる炎。
途中で退却するのは好きではないが、今衛兵とやりあうのは避けたい。どうせおびき出すなら雑魚よりも、真打ちでなければ意味は無い。
どうやってずらかるか?
口元に浮かぶのは、皮肉の笑み。
彼女から逃れ、王宮を出るのは簡単な事。
しかし、彼の中の盗賊が嗤う。
欲を出せ。
何のための力だ。
この時を迎えるために手に入れた力を、使わずして何になる。
「そりゃそうだ」
一人そう納得して息をつく。
そして、彼は黒竜を指して静かに言った。
「やれ、ディアバウンド」
二体の精霊が争うこの状態に、まさか神官団が気付かない訳が無い。そして彼らが気付いたならば、必ずあの若き王は自ら赴いて来るだろう。
ディアバウンドは、破壊の波動をに向かって放つ。
歪み無くまっすぐに進むそれが、彼女を飲み込むのは数秒の後。主を無くした精霊がどうなるのか。はたまた、彼女を巣とする精霊はその器を守ろうとするのか。
さあ、どう出る。見せてみろ。
咽の奧が悦びに鳴る。
そして羽ばたく黒翼が、小柄な女を守るように破壊の風の前に飛び出した。
ディアバウンドの攻撃が生ぬるい物である筈もなく。黒竜の口からは苦痛の咆哮が走り、辺りに響いた。それに呼応するように、の瞳が揺れたのをバクラは見た。
大きな瞳がさらに大きく見開かれ、開いた唇から零れるのは彼が予想した通りの、悲鳴。
「ぅ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
精霊の受けた傷がその主に直結するのは、もはや常識。
黒竜がを守ろうが否が、ディアバウンドの攻撃を食らえばも消耗する。
「……もっと聴かせろよ……」
長年望んできた甘美な声を。
苦痛に歪んだ表情に、赤い瞳から溢れる雫。
過去と決別するために。
「……お前を染めるのは――」
この俺様だ。
その言葉が音になる直前。
地に伏したが、炎の宿る眼を上げた。
溶けて形を無くした思考を収束させたのは、ただ純粋な痛みだった。
やみくもに殴られたような、でたらめに斬られたような苦痛。
身体を引き裂かれる痛み。
何かを考えるよりも先に口から悲鳴が上がるのを聞いた。その自分の声で、切り離された身体と心の感覚は再び繋がる。
決して心地よいとは言いがたい苦痛は、立つ事を許さない。
いっそ気を失えれば楽だったのに、と思う事すら忘れ、開いた口から漏れるのは、激しい痛みに耐えるための叫び。
そして、は揺らめく世界の端にちらりと笑う顔を見た。
許さないと決めたその青年の顔に、は胸が痛くなる。
こんな事、誰も望んでなんかいなかったのに。
彼はどうして盗賊の道を選んだのだ。
辺境のオアシスで意地悪に笑った少年は、どうしてこんなにも禍々しい笑い方をするようになったのだろう。
理由は知らない。解らない。
なぜなら、あの時、何も知ろうとしなかったから。
名前と顔以外はどうでもいいと思ったから。
ただ、互いにこいつは面白いやつだと思った。それだけだった。
友である事にそれ以上の理由なんて必要だったろうか。
彼は変わった。
もうあの時の少年ではない。
気付かないだけで、きっと自分も変わった。あの頃とは多分違う。
けれど、バクラのそれは、全然違う。
もっと、彼が彼であった根底からの何かが変わってしまった。
何がそうさせた。
どうしてその道を選んだ。
なぜ、と疑問は尽きない。
くいしばった奥歯のさらに奥で、喉が引きつるような感覚。
ねぇ、あの時のあんたに戻ってよ。
そうすれば、かつて友だと思った相手を憎まずにすむのに。一度信じた相手を憎むのは、とても苦しいのに。
しかし、その願いが叶わない事をは無意識に感じていた。
狂気に嗤うバクラの瞳が、もう元には戻りえぬ事。彼の選択した道が、もう先へ進むしか残されていない事。
だから、互いに戦わなくてはいけないのだと。
伏した地面の砂を掴む。
空気は未だ熱を帯びていて、身体じゅうを駆け巡った激痛は、散々暴れてじわじわと消えてゆく。
自由の戻ってきた身体と思考。
見上げれば、傍らにたたずむ巨大な黒竜。
まだ痛みが大半を支配する身体で笑みを浮かべて、は手をついて身体を起こした。
砂を掴んでいた手が、黒竜に伸ばされる。
赤い瞳に強い光が宿り黒竜の、同じ赤の眼を見る。
伝わるのは、やはり破壊を望む衝動。
変わり無くを飲み込もうと語りかける囁き。
その声を胸に聞きながら、は笑みを消し、口を開いた。
「勝手に、暴れるな」
私に、従いなさい。
低く紡がれた声。
もう拒まない。お前が戦うためにいるのなら、その力を使おうじゃないか。
でも自由は許さない。
私の望まない破壊は許さない。
それが、私たちの共存のルールだ。
輝く二対の赤い瞳が睨み合い、小さな方がバクラを見る。
紅の瞳と夕暮れの視線がぶつかり、は伸ばした指でまっすぐにバクラを指した。
「お前が捕らえるのは、あいつだよ!!」
叫ぶように響いた声に反射するように、黒竜が咆哮と共にバクラへ襲い掛かった。
舌打ちひとつ、身を翻したバクラが駆け出し、それを護るように黒竜とバクラの間にディアバウンドが割って入る。
それを見ながら、は叫んだ。
体が痛むのも、喉の奥が痛いのも気にならない。
解ることは、今の自分にバクラの操る精霊獣を倒すだけの力が無いことだけ。
バクラは逃げようとしている。
早く誰か気付いて。
そして彼を捕まえて。
「黒炎弾!!」
月の浮かぶ夜空に、炎の玉があがった。
だから走るしか道は無い。