空の瞳と闇の声
シャダとセトの帰りはその日の夕暮れ。二人はまっすぐファラオのもとへ視察の報告に赴き、がシャダの帰りを迎えたのは月が高く昇ってからだった。
彼女の予想よりも酷く疲れたような師匠の姿に、思わず眉をよせる。
「大丈夫ですか、シャダ様。街で何かあったんですか?」
普段の彼ならば、多少の疲れや苦痛はやせ我慢してでも見せようとはしない。
それが、彼の癖なのか、に気を使わせたくないからなのかは解らないが。少なくとも、目の下に濃い隈を作るほど疲れる何かがあったのは確かだ。
「……お前に言うような特別な事は無かった。ここ最近色々あったからな……少し疲れていたんだろう。そんなにひどい顔をしているか?」
「そりゃもう。前に一日中宮廷裁判した事あったでしょ? あの日の夜みたいです」
苦笑するシャダに、怒った口調を作って言う。
「また寝込んだりしないでくださいね」
以前、墓荒らしの一味か捕まった時。シャダは一日その裁判にかかりきりになった。
あの時、千年錠の力を使いすぎて過労で倒れたシャダは三日間寝込んだのだ。その事を思い出したのか、真面目くさった表情で「そうか……」と呟いたシャダを見て、は思わず吹き出した。
「やだ、冗談ですよ。あの時よりましですって。本気にしないでください! 早く床につけば疲れは取れますから」
そう言いながら彼女が差し出した水を受け取り、シャダは小さく頷いたが、それでも表情は晴れない。
感情の見えにくい師匠ではあるが、さすがに何だかおかしいような気がして、はシャダを見上げた。
「あの……本当に体調が良くないんじゃないですか? 今日はもう、早く休みましょう?」
身が保たなくては、何も出来ない。資本となるのは自分の身体だと、誰かが言っていた。多忙な時にこそ、健康には気を配る事を忘れてはいけないと。
どちらにせよ、明日も明後日もシャダが多忙な事に変わりは無い。今のうちにしっかり休息を取ることは、彼にとって必要な事のように感じられた。
「今、シャダ様が倒れたらそれこそ冗談じゃないですよ? 私も今日はおとなしく下がります。城下の話はまた今度聞かせてください」
退室する意思を告げると、はひとつ頭を下げた。
「おやすみなさい、シャダ様」
顔を上げてそう言うと、シャダがじっとこちらを見ているのに気が付いた。
瞬きを数回。
就寝の挨拶など、いつもの事だ。そこに何かおかしなところでもあったのだろうか。
そう考えるも心当たりは思い浮かばず。
心の中で首を捻っていると、シャダはゆっくりとに歩み寄ってきた。
そっと伸ばされた手がの頬に触れ、瞬きを繰り返す赤い瞳がシャダを見る。
「あの……シャダ様……?」
一体何ですか。
その言葉は、シャダの耳を素通りしていった。
引き込まれるような宝珠の輝きを宿す瞳。
炎よりもさらに赤い、鮮血の色をした紅い瞳。
きらきらと表情豊かに煌くその眼に、昼間見た白い肌の女が重なった。
あの異国の女はとは少しも似てもおらず、むしろその身に纏う色彩のみを取るならば正反対とすら言えるのに。
ああ、そんな事ではないのだ。
シャダの心は叫ぶ。
二人が似ているのはその容貌などではない。
精霊の姿すら、容姿と同じで全くの反対でありながら、彼女達は同じく強力なカーを持つが故にセトとシャダにより見つけだされた。
その経緯は似通っていながら、あの異国の女はもう、のように陽の下へ出ることは無いのだろうと思うと、あの空色の瞳が哀れに思えた。
セトが何を考えているのかは解らない。しかし彼女がもう今までの生活に戻れる事は無い。
体力が回復次第、カーの力を最大限に利用するために調教されるか、それに近い扱いを受けるのが目に見える。
そんな所まで、まるで対極だとは。神もなんと無慈悲な事だろう。せめてあの女がこの国の民であったならば、もっと違う行く末があったかもしれないのに。
そう思えば思うほど、あの異国の女が不憫で仕方なかった。
「シャダ様! 寝てもいないのに寝ぼけてるんですか!」
結論の出ない考えを遮るように発せられた声。
はっとして見れば、が明らかに怒った顔でこちらを見ている。
「いや、その……」
言葉もなく口籠もり、すまない、と呟くシャダに、は盛大な溜息をついた。
「何を言いたいのか解りませんけど、もう休んでください! 今日のシャダ様は変です!」
きっぱり言い切ると、彼女はくるりと踵を返す。
「私も休みます。だから、シャダ様は私よりも、うんとたくさん休んでください。いいですね!?」
強い調子で言い残し退室したを見送り、シャダは自嘲気味に笑った。
に一体何を言うつもりだったのか。
自分でも理解できない衝動。
逃げろ、とでも言いたかったのだろうか。
お前はあの女とは違う。この狭い王宮に捉われる前に、地下の闇に捕まる前に、あの蒼穹の下へ出ていけとでも?
神官としてここへ来た彼女に対して、それこそ許されぬ事だというのに。
中庭に立ち、夜空を見上げた。
輝く満月は、昼間には足りずとも確かな光で地上を照らし、銀の光の浮かぶ夜空は、星が薄れる程には明るかった。
何も変わらない空は、きっとこれからも、地上で何が起ころうと素知らぬ顔をしているのだろうと、ふと思う。
の周囲は無関心ではいられない程に変化し、多くが変わってゆく中で。
空に浮かぶ神の光は『そんなこと、なんでもないわ』と言うように変わらないのだ。
「何があったんだろう……」
人のいない中庭で、の声は闇に溶けた。
シャダはどこか上の空。
さっきも、の頬に触れながら、彼の心はを通り越して彼女に見えない物を見ていた。
「ほんと、シャダ様らしくない」
言い切って溜め息をひとつ。
彼はいつも目の前のものを真摯に見つめる人のはずなのに。
それとも、気付かなかっただけで、やはり疲れが溜まっていたのだろうか。
明日は薬師に頼んで薬湯を用意してもらおう。
「そしたら、元気も出るでしょ」
そう言いながら、再び満月を見やった彼女の肌を。
ざわりと撫でる空気に思わず目を見開いた。
気のせいかと、心に問う。
しかし、粟だった肌はなかなか平常には戻らず、心臓は妙にぎこちなく鼓動を早める。
清廉な空気がわずかに濁る。
けれどそれが何のせいなのか解らない。
確かなのは、恐怖を煽る何かが近い場所にいるということ。
にも関わらず、何のざわめきも聞こえない事が、余計に不安を掻き立てる。
自分だけが、この奇妙な感覚を抱いているのかと。
気のせいかと自分に問う。もし、そうならばそれに越したことは無い。
これ以上何か良くない事が起こるのはもうこりごりだ。だから、何も無いならそれが一番に決まっている。
「……気のせい。うん、気のせいだ」
シャダと同じく、自分もまた疲れているのだろう。
そう思うことにして、は深く息を吸った。
拭えない不安も、疲れからくるものだ。そうに違いない。
まだ修業が足りず、落ち着きが無いから、こんなに心がざわつくのだ。そう思った。思いたかった。
「よぉ、」
しかし、闇の中から自分を呼ぶ低い声は、その思いを打ち砕いた。
ああやめて。
心の中で思い出が叫ぶ。
名前を呼ばないで。思い出させないで。彼がその男なのだという確信を、ここに持ってこないで。
どうして思い出は記憶の中で眠っていなかったの!
振り返ったの顔は苦しげに歪んでいた。
松明に照らされた闇の中に光る一対の瞳。夕暮れ色の紫をしたその瞳はおかしそうに光っていた。
その胸元では、黄金の光を反射する千年宝物。
頭がくらくらする。これも疲れているからだろうか。
実は今自分は眠っていて、良くない悪夢を見ているのではないか。
しかし、そんな事は無いとわかりきっているは、小さく奥歯を噛み締めて彼を見た。
目の前の闇に立つ青年は、彼女の記憶の中の少年と同じ面影で、けれど彼女の思い出よりも凶暴な光を宿した瞳で、こちらを見ていた。
目が合えば、全身を鳥肌が駆け抜ける。心臓を乱暴に鷲掴みされたような感覚に、は体を強張らせた。
「……ばくら……」
確認するように、小さく彼の名前を口にするのが精一杯。
けれど人のいない中庭で、その声は彼の耳にはっきりと届いたようだった。
「覚えておいてもらえたとは光栄だなぁ」
にやりと笑った口から発せられた声は、やはり記憶と同じ。
間違いではなかったのだ、と突きつけられた現実。
「あんたが、盗賊王……?」
震える唇を無理やり動かして声を出す。喋る事はこんなにも重労働だっただろうかと、僅かに疑問すら浮かんだ。
「俺様の他に誰がいるっていうんだ?」
なあ、と笑うバクラは砂を踏みしめ一歩前に出た。陰の中から、月明かりの下へ。そして松明の明かりの届く場所へと、まっすぐのほうへ向かう。
「そういうお前は王宮の神官様か? お前の噂を聞いて酒場に行きゃあここにはいないと来た。たかが町娘のは王宮の神官様になったってな!」
砂を踏む音。
バクラの低い声はまるで夜の闇から湧き出るようにの耳に響く。
ゆっくりと後ずさる自分の足の下で鳴く砂の音が妙に大きく聞こえた。
目の前に立つ男は、普通じゃない。
彼女の知っている、意地悪の過ぎる性格の悪い少年ではない。彼は、決定的に違う道へと歩みを進めてしまった。
彼の胸に下がる千年宝物は、それを象徴するように、鈍い光を反射している。マハードの胸で燦然と太陽の光を受けていたそれは、今や禍々しいものにしか見えない。
「なあ。俺様は悲しいぜ」
笑いながら言うその瞳に輝くのは、狂気。
「お前の事は、結構気に入ってたからよぉ」
そう言いながら差し出された右手の。
紅く濡れたその色に、は目を見開いた。
心臓が痛い。これはそういう魔法だろうか。
そもそも、彼の手は一体どうして濡れている? その液体は何? その液体に濡れた手で、どうして彼は嗤っている?
誰か早くこの魔法を解いて欲しい。
息が苦しい、心臓が痛い。思考が鈍る、頭の中がぐるぐる回る。
今目の前にある事象の意味がわからない。
この人に、どうしても言わなくてはいけない事があったはずなのに。
働け頭。戻って来い、声。
他人にはどうでもいい事でも。けれどあの日、紅玉の花を握り締めて誓ったその言葉は、自分にはとても重要なものなのだから。
だから彼が例え自分の知っているその人と変わってしまっていても、言わなくてはいけないから。
震えよ収まれ。違うこれは震えているんじゃない。奮えているのだ。
目の前に近付くこの男に、怯えている訳じゃない。決して。
赤に濡れた手がに伸ばされる。笑みを浮かべたまま、バクラは言った。
「本気で失望したぜ。まさかお前が王宮の味方をするなんてな」
「勘違いしないで」
搾り出すように紡いだ声。
赤く濡れた手が触れる直前、はバクラを睨みあげた。
「私は誰の味方もしてない。ただ、マハード様を殺したあんたが許せないの」
立ち止まった盗賊の、紫の瞳が面白そうに嗤う。
「それに、私はあんたに返さなきゃいけないものがある」
質素な荷物の中で場違いに輝くあの花と、マナの悲しみを。
「私はあんたを許さない!」
叫ぶように言って振り上げた右手が風を切る。
その瞬間、恐怖や怖れはどこかへ吹き飛んだ。
目の前に立つ男は大切な友の大切な人を奪った。
その事実だけが、確かな形になる。
マハードの命を奪い、自らを盗賊の王と名乗る彼を。今も嗤っているこの男を、許すことなど出来やしない。
しかし振り下ろしたの手は、バクラに止められる。
赤に染まった手がの手首を掴み、紫の瞳が冷ややかに彼女を見下ろした。
「威勢が良いのは相変わらずか」
その声と共に、彼の背後からぶわりと黒い影が広がるのが、見えたような気がした。
鼻をくすぐるのは、微かな鉄の匂い。
掴まれた場所を中心に、ぞわりと鳥肌が立った。
「けどよぉ、もう遅いぜ、」
嗤う瞳に光を差す松明の灯りが、バクラの表情を余計に狂気じみたものにしている。
けれどそれ以上に、は捕まれた右腕を振りほどきたかった。
鉄の匂いを、一刻も早く洗い流し、忘れないと。
「放して!」
そう叫んでも、バクラの手は離れない。捕まれる力は弛まず、むしろ強くなっているようだった。
鉄の匂いがだんだん強くなる。
頭がくらくらする。
それでも、一点だけ揺るがない目印がひとつ。
この男を、許せない。
「俺様と来いよ」
低く言ったその声の意味を、が理解する前に、バクラはぐいと顔を近付けた。
また、鉄の匂いが一層強くなる。同時に、頭の中は思考を許さない程にぼやけていった。
それを知ってか知らずか、バクラは低く絞り出すように続ける。
「テメェがこんな王宮に居るこたぁねぇ」
それを決めるのは、私だ。
頭が働くならば、迷わずにそう言っただろう。
しかし、どんどん濃くなる生臭い鉄の匂いに、の意識は奪われていく。
ぼやける思考と比例するように大きく強くなるのは心臓の鼓動と、身体を巡る流れの温度。
鼻をくすぐるその香りが、五感を支配していくのを確かに感じた。
「放して……」
虚ろな思考でそう口にした目の前。確かにいるはずの男の顔が滲んだと同時に、頭に響く声を聞いた。
その瞳と同じ色をした液体。