晴天の下

 神官団とファラオにより、街への兵士の配備が決定されたのは、日が傾いて少したった頃だった。
 ただ一人。されど、強力な力を持った盗賊のために王宮も厳重な警備がなされる。
 師匠の執務室で彼の帰りを待っていたは、シャダの口からその知らせを聞いた。
 そして彼は、明日セトと共に城下に下って街の様子を視察しに行くという。
 ひとりの盗賊の手によって神官団が欠けた。その事が民衆に広まれば彼らに少なからず不安を抱かせることになる。
 すでにマハードの出兵は街の誰もが知っている。きっと、魔術師の姿の描かれた石板が王宮に運ばれた事も、彼らは知っているのだろう。そして、それが何を意味するのか。
 噂が広まるのは風が駆け抜けるように早い。
 きっと明日の朝には街じゅうで良からぬ噂が流れる事だろう。
 街に兵士が配備されるとなれば、民衆の不安はさらに大きくなる事は目に見えていた。
 シャダとセトの視察は、そんな彼らの要らぬ不安を少しでも払拭するためのもの。

「シャダ様、その視察、私も一緒に行っていいですか?」

 城下の出身であるにとって、そこは限りなく身近な場所で、そこに住む人々の気持ちは良くわかった。
 だから今、街がどんな様子なのか見ておきたい。
 しかし、彼女の申し出はあえなく却下された。

「駄目だ、。街は必ずしも安全であるとは言えない。お前は城下の出身だ。ならば解るだろう。敏感な今の街の様子が。それに、もしもバクラが街にひそんでいた時、何が起こるとも解らん」

 納得のいく理由。けれどは不満そうにシャダを見上げた。

「街の様子くらい見当がつきます。けど、私は今起こっている事を知りたいんです。王宮で、街で……どうして皆が悲しまなきゃいけないのか。万が一にでもバクラに遭遇できるなら本望ですよ。マナの代わりに殴り飛ばしてやります」
「余計に許可しかねるな」
「シャダ様!」

 即答したシャダに、は言い返す。しかし、相も変わらず静かなシャダの瞳はゆっくりとを見つめ、言い聞かせるように告げた。
 「、お前は修行を。何が起こるやも知れぬ状況だ。だからこそ、お前には自分の力を自在に操る事ができるようになってもらわねばならない。……極端な話、戦にでもなれば、お前のカーは必ず必要になる。例えお前の実力が伴わずとも、その存在を知っている者がいる以上、いずれ誰かが言い出すだろう。の黒竜を出せ、と」

 何故ならば、その竜の力は神官団のカーにも匹敵する力を持っている。
 巨大な黒竜が灼熱の風を巻き上げ大空を飛翔し、あらゆる敵を燃やしつくし粉塵と変える様は、畏怖するに値する物であるに違いない。
 しかしそれは、このまだ幼ささえ残る少女が操るにはあまりに凶暴で破壊に満ちている。黒竜が暴れた後には彼女が目を覆いたくなるような光景が残されるであろう事もまた、容易に想像できる事だった。
 だからこそ、出来る事ならば彼女が戦いのためにカーを使う事無きように。柄にも無くそう願ってしまう。せめて、彼女が心身共に成長しきるまでは。

「……やっぱり戦になるんですか……? バクラと……?」
 シャダの言葉に、は沈んだ声で尋ねる。
 彼女が生まれるずっと前にこの国は前ファラオにより統治され、以来外国はおろか国内ですら、戦らしい戦をした事は無い。
 攻められる事無き強大な大国となったこの国の、平和な時代に生まれた彼女には、戦とはとても遠く想像するに難いものだった。
 不安な表情のに、シャダは苦笑を浮かべる。

「極端な話、と言うだけだ。安心しろ、。盗賊ひとりを相手に戦になるなど、聞いたことも無い」

 実際問題、今の王宮がそのひとりの盗賊に踊らされているのは変えようの無い事実だが、そこでさらに戦となれば、それはとんだ茶番劇だ。
 バクラがいかに凶悪で、とんでもないカーを持っているとしても。彼が捕らえられその命を奪われるのは時間の問題。

「心配せずとも、すぐに元の生活に戻る。お前はまだ学ぶ事が多いから不安に思うこともあるだろうが、今までどおりにしていれば良いのだ」

 励ますようなシャダの声は、に不安を抱かせる。
 噛み合わなかった歯車がぴたりとはまるように、彼女は自分の恐れていたものを理解した。

「……元に、戻るって……」

 呟くの言葉にシャダは頷く。には今の師匠がとても遠く感じる。

「今までどおりって……」

 その“今まで”はもう戻ってこない物ではないのか。
 いなくなってしまった人、受けてしまった傷。
 それをどうして“今まで”に戻す事ができるのだろう。
“これから”には、もうマハードはいない。マナの“これから”に、思い描いた彼との夢はやってこない。
 そして“今まで”を知っている自分は、“これから”どうしていいのかが解らない。

「無理ですよ、シャダ様……だって私、元に戻るやり方が、わかりません……」

 考えても、答えが出てこなかった。
 マナに何と声をかければいいのか。どう慰めればいいのか。
 絶望に染まった彼女の瞳は、まるで底なしの奈落のようで足が竦んだ。
 あまりにも瞬く間に変わってしまった。
 戻ってくるはずだった日常は、一瞬で消えた。

「シャダ様、どうしよう……私、マナと笑えなかったら……マナが、笑えなかったら……」

 口に出すと、手が震える。
 あの陽だまりのような笑顔が失われてしまう事が、ひどく恐ろしい。
 自分は大丈夫だ。また笑える。
 だって、まだ大切な人を失ってはいない。ショックは受けたが、いずれ忘れる。
 けれどマナは違う。
 マハードは、マナの一番大好きな人だった。
 彼はマナの師匠で、マナの慕う人で、彼女が一番大好きな人だった。
 そんな彼が、こんな形でいなくなって、マナはまた元に戻れるのか。
 あの瞳に、また陽だまりの光は戻ってくるのか。もし、戻ってこなかったら。明るい笑顔の代わりに、絶望と、バクラへの憎しみに染まってしまったら。
 そう思うと、どうしようもなく怖くなる。

「マナならば、大丈夫だ。……、お前が心配するような事は無いだろう」

 肩に乗ったシャダの手に僅かに力が込められた。

「何より、お前がそうでどうする。友がそう塞いでいては戻る元気も消えてしまうだろう」

 マナは、幼い時から王宮で過ごし、魔術の修業を続けてきた。それは生半可な事ではない。マナは決して弱い少女でなく、小さな身体には、確かに魔術師たる心の強さを持っているのだ。
 そう話すシャダは、困った子供にそうするように、の頭に手を乗せた。

「私にはマナよりもお前の方が心配に思えるな」
「こ、子供扱いしないでください……それに、ふざけてる時じゃないです……」

 ため息すら含んだような言葉に、は小さく師を睨む。
 そんな彼女を見、シャダは言う。

「お前は相変わらず感情に流される」

 それは悪い事では無い。心が豊かなのはむしろ良い事だ。
 心は身体を作り、そして正しき心により作られた肉体と精神を持つ者は強力なカーを自在に操る事ができる。

「負の感情に流されるな、。憎しみ、恨みは力にはなりはしない」

 深く震える空気がシャダの声を耳の奥に伝える。
 湖面のような瞳は揺れる事無く、ひたと紅の瞳を見つめた。
 瞬きすら許さないその眼に、は動けずにいた。
 頭の上に乗せられた手の重さが、実際の重量以上に重い。

「例えそれがお前の力になろうとも、そこから得た力は、最後に身を滅ぼす力だ」

 静かに空気を震わす声の余韻を噛みしめ、はゆっくりと息を吸ってシャダの目を見返した。

「はい、シャダ様……」

 けれど、とはシャダの服を掴んだ。

「シャダ様も、気を付けてください。明日の視察。絶対、帰ってきてくださいね」

 当たり前だ、と笑ったシャダの表情に心が少し安らいだ。

 早朝の出発は、マハードの出ていった朝を連想させた。
 黄金の光を反射させながら、兵を引き連れ街へと下るシャダとセトの姿を見送りながら、は手を握りしめた。
 マハードは、同じような朝に旅立って、二度と帰らなかった。
 兵の配備と、街の視察のために王宮を出ていく二人まで、もう帰ってこなかったら……
 そう思うと、どうしようもなく怖くなる。
 まだ王宮に来て一年にしかならない自分には、マナとマハードのように強い師弟の絆は無いかもしれない。
 しかし、シャダは大切な師匠。まだ、マナ達のようにはいかないが、いつか必ずあの二人のような強い絆で繋がった関係になりたいと思っている。二人は、にとって目標でもあった。

「シャダ様! いってらっしゃい!!」

 張り上げた声に、師匠の右手が小さく上がった事にひどく安心した。
 晴れた空の下、兵士達が見えなくなるまで見送って、は気持ちを切り替えるように息をつく。

 必要の無い心配事。
 余計な不安。
 そんなものばかりが心で蠢く。
 暗い気持ちのままでは何も出来ないと、シャダにも言われたばかりなのに。

「しっかりしろ、私」

 青空を見上げ、呟く。

「もたもたしてたら、追い付けない」

 シャダだけでない。マナにだって、まだ追い付けないのに。
 何が起こるか解らない時だとシャダは言った。
 ならばやはり、早く黒竜を手懐けないと。
 握りしめた右手を見つめるに、声がかけられた。

「朝から血気盛んですね、

 優しい声は慈悲に溢れ、振り向くとアイシスが微笑んでこちらを見ている。
 シャダのように、全て見透かすような瞳。けれど、少し違うのはアイシスの方が常に穏やかな微笑を湛えている事。
 その佇まいから母親を連想させる彼女にファンが多い事は、一年の間によく解っていた。
 女性らしい身のこなしや所作、気遣いは近くで見ていてとても憧れるし、いつかは自分もそうなりたいと思うのだが、悲しいかな出てきた結論は、致命的に持って生まれた素質が違う、ということだった。
 神官団の紅一点であるアイシスと比較して、はあまりにもお転婆で落ち着きが無く、そしてまだ若すぎた。

「アイシス様……!」

 慌てて頭を下げる。伏せた目の先に、アイシスの靴先が映る。
 ゆっくり近づいてきた彼女は、のそばまで来ると顔を上げるように言った。

「不安で仕方がないという表情ですね。シャダは大丈夫だと言っていたけれど……」

 の顔を覗き込んでそう口を開いたアイシスに、慌てて首を振る。

「大丈夫です!」
「……そうですか? なら良いのですが。あなたとマナが静かだと、辺りが一気に静かになると、皆言っていましたよ」

 優しくそう言われ、こくりと頷いた。
 そんなの手を取り、アイシスは続ける。

「まだ無理に笑う必要はありませんが、忘れないで下さい。あなたが一番輝くのは、笑っている時なのだと」

 じわり、胸に染み込む温もりがアイシスの手から伝わってくる。

「ありがとうございます……」

 思わずそう零れた声は、うまく音になっただろうか。
 心が震える。
 アイシスの言葉は、昨日シャダに励まされた言葉と違う温度で、ゆっくり優しく心に届く。彼女の言葉に誘導されるように、顔の筋肉が、笑みの形に動いたのを感じた。

 ああ、私は笑える。

 その事ひとつが、とても幸せだと思った。
 きっと、次にマナに会う時も、同じように笑える。

「ありがとうございます、アイシス様……!」

 繰り返した言葉に、アイシスは優しく目を細めた。
 ならば行きましょうか、と繋いだ手を引いてゆっくり歩き出す彼女に、は無言で従った。

 遥か砂漠の彼方まで見通せるのではないかとすら思える、突き抜ける晴天。
 太陽だけでなく、空さえも眩しく見えるような天気だった。
 城下に下りたシャダが、セトと共に彼女を初めて見たのは、そんな日だった。


 石を投げられ、立つ力さえ失い。か細い呼吸を繰り返し、傷だらけで道に横たわる女は、一目で異国から来たのだとわかる容貌をしていた。
 国の民と比べ、あまりに白すぎる肌。フードの中から零れ落ちる長い髪は、月光を集めたような銀。傷つき、疲れ果てた瞳は、砂漠の青空を切り取ったような青。
 遠い北の地には、驚くほど白い色の肌を持つ人々が暮らすと、昔旅人から聞いた事があった。
 残念な事に、今やその旅人の名前どころか顔すら思い出せないが。
 しかし今、問題なのはその旅人の名前や顔ではなく。目の前に倒れている女の抱く強力な力。
 手に持つ千年錠から伝わる、目で捉える事の出来ない力の流れ。
 思わず見開いた眼に映るのは、地に伏した女を包むような白い光と、その光よりもさらに白い純白の竜。
 身動きを封じられたように、空気を奪われたように、息が苦しい。
 その感覚は、初めてあの紅い眼をした弟子に会ったときと酷似していた。
 本能的に抗う事の出来ない力の渦。抵抗した所で、到底適わないと叫ぶ心。

 あの時もそうだった。
 のヘカは彼女の身体を包むように溢れだし、その背後にある巨大な黒竜の影に呼吸を忘れた。
 今も同じ。
 この異国の女を包む光は、その痩せすぎた体から溢れたヘカ。見た目からは想像も出来ないような力がその身に宿っている。
 まるでのカーと相反するように。もしくは対を為すように、汚れなき白に輝く竜。
 瞬きを忘れ、呼吸さえ忘れ。今の彼には、この場所が街の路上だという事もさして問題では無かった。
 ただ立ち尽くし、彼は千年錠越しに女を見つめた。

その出逢いが世界を変えると、
 誰に予知出来ただろうか。