戻らぬ願い
高く昇った月の光に心が騒いだ。横になっているのも落ち着かなくて庭に出て見上げた夜空はいつもと何も変わらず。
宵闇に眠る世界の中でこうして活動している自分は、とても場違いなような気がして苦笑した。
ジョーノとは未だ気まずいままで、お互いに謝る気配も無いまま数日が過ぎた。
四六時中傍にいるのに互いに口も利かないというのはある意味かなりつらい。毎日今日こそはと思いつつも、長い付き合いで先に折れるのは何だか癪にさわり、二人とも意地の張り合いになっているというのが正しい現状だ。
きっかけさえあればすぐに元に戻れるのに、そのきっかけが出てこない。
全く幼稚な事なのかもしれないが、とジョーノは昔から変わらずこうだったから、今更すぐに謝るような気質には変われない。
明日の予定を思い出し、溜息と共に漏れるのは何の意味も無い独り言。
「あぁ、寝なきゃな……」
昼間の熱が冷めた空気を胸いっぱいに吸い込んで踵を返すと部屋へ引き上げる。
明日は、マナと共にアイシスから指南を受ける事になっている。まさかの寝不足で居眠りなどというふざけた事にならないよう、早く休もうと思っていたのに。
胸の中で呟いたは、夜の眠りに落ちていった。
何よりも、ここ最近はひどく疲れる出来事が多い。体だけではく、心まで。
そして戻らない時を置き去りに、夜は明ける。
いつもと変わらない夜明けに、いつもと変わらない朝。
変化を告げるのは、ひどく消耗した一人の使者。
とマナはアイシスのもとでその知らせを聞くことになる。
「マナ、落ち着いてお聞きなさい」
普段に増して落ち着いた声で言うアイシスにその瞬間嫌な予感がした。それはマナも同じだったようで、彼女の小さな手がの服の裾を掴んだ。
「マナ、マハードが……」
それ以上は言ってはいけない。聞きたくない。
頭の中で警鐘が鳴る。けれど声が出ない。
「マハードが、王墓警備の最中に――」
命を落としました。
ただただ静かに響いた声は、そんなはずも無いのに辺りに反響した。
一瞬言葉の意味が理解できず、息をする事すら忘れたように固まるの隣で、マナが目を見開く。
「うそだ!!」
悲鳴のような叫び声と共にアイシスを押しのけて走り出したマナを追いかけるように、も足を踏み出した。
「マナっ!!」
反射的に動いた後に考えは付いてきた。
あのマハードが死んだ?
王墓を警備しに行った最中に?
魔術も超一流で、マナから聞く所によるとこの国で彼に勝る魔力の持ち主はいないという。
そんなマハードが、たかが王墓警備で命を落とすなど、ある訳が無い。
何よりも、彼はこの国最高位の神官の集まりである神官団の一人なのだ。数多くいる神官達の中でも最高の力を持つ人が、そんな簡単に死んでしまうはずが無いのだ。
マナの足は、速かった。
マナもも、普段から落ち着きが無いとよく注意をされている。だから知っていた。身軽なマナよりも、さらに自分の方が足が速いという事。それなのに今、彼女に追いつく事ができない。
マナは無言のままに走り、その足が選ぶ道はだんだんと王宮の最奥を目指す。は知らない、けれどマナは良く知る道。
「マナ! 待って……!!」
そう呼ぶ声に制止の力が無いことは、本人が一番知っていた。
今のマナはきっと誰の制止も届かない。彼女を止めることができるのは、その師であるマハードただ一人。
駆け抜ける回廊に立つ兵はマナを止めようと立ちはだかり、マナはその脇を転がるようにすり抜ける。
怒鳴り声は耳から耳へと流れ、はマナに続いて地面すれすれをすべるように駆け抜け。後ろから追いかけてくる怒声を尻目に、マナは止まる事無く目的の場所を目指す。勿論も追い付かれるようなへまはせず、前を走るマナの後ろを走った。
やがて辺りは走っていても解るほどに重々しく荘厳な雰囲気になる。
頭の中をもしや、という予感がよぎりは唾を呑んだ。
前を見れば、マナは入ろうとした部屋の入り口で兵士に止められていた。
「マナ!!」
追い付くと、兵士はの腕も掴む。後ろからやってきた兵士たちも二人を取り囲み、厳しい表情で彼女達を睨む。
「放して!! 通してよ!! お師匠様に会うんだ!! お師匠様ぁっ!!」
叫ぶ声は辺りに響き、兵士の怒りの声を掻き消した。
「ここは駄目だと言っているだろう!! 牢屋に入れられたいのか!!」
目を吊り上げた大柄の兵士に言われても、マナは叫ぶ。
「通してよぉっ!!」
「マナ、落ち着いて!」
負けないように声を張り上げてマナの腕を掴めば、涙を溜めた大きな目がこちらを見た。その表情に、口をつぐむ。
マナは何も言わなかった。
ただ一瞬、目が合っただけ。
大きな瞳いっぱいに浮かんだのは、いつもの花のように可憐で明るい色でなく、絶望を否定するただただ必死の願い。
は思わずマナの腕から手を離し、立ち尽くす。
初めて、心から必死に願う人の眼を見た。
息をする事すら忘れそうな目の色。
マナは、解っている。解っていてなお、願っているのだ。
彼女の敬愛してやまない師は、まだ生きているのだと。
しかし、それを虚しく否定するように声があがった。
「構わない、通してやれ」
ただの部屋だと思いたかった広間。
その奥から届いた若々しく力強い声は威厳と悲しみに満ちていて、はびくりと肩を揺らした。
聞き覚えの無いその声が誰のものなのか。聞かなくても解るような気がする。
神官達とも違う、若さと自信に満ちた、けれど驕っている訳ではないその声の主は……
広間の方をゆっくりと見やる。の事など忘れ去ったかのように走りだしたマナを見送りながら、彼女は自分の予想が正しかった事を確信した。
彼女の知る、どの広間よりも荘厳な部屋。
最奥にある立派な玉座とその後ろ両脇の壁に描かれたホルスの目。他の壁にも美しい絵が描かれ、緻密なレリーフが施されている。
そこは間違えようもない玉座の間。
そして、その中央に、は一番見たくなかった物を、見た。
巨大な石板と、そこに浮かび上がる魔導師の姿。
背筋を伸ばし、凛々しく前を見つめる瞳のその人は……
「まはーど、さま……」
零れ落ちた声はマナの泣き叫ぶ声に掻き消され、まるで魔法にでもかかったように動けない。玉座の間の入り口で石板を見つめたまま、立ち尽くした。
床に伏す友と、その周りの神官達、そしてファラオと巨大な石板と、それら全てを含んだ目の前のものが、どこか遠い所の出来事のように感じられる。
まるで感覚が麻痺したように、はそこに棒立ちになっていた。
涙すら流れないし、心はまるで静かな朝のように波ひとつない。
そんな自分は、きっと、とてつもない薄情者なのだろう。
どこか遠い所の思考はそんな事を考え、目はただほんやりと目の前を見ている。
誰も彼女の事など気にも留めていないし、今は誰かに干渉されるのも苦痛だった。
マナのように声をあげて涙できたなら、それも良かった。けれど、泣くことすらできず、ただ立ち尽くす自分は誰かに声を掛けられても、どうする事も出来ないのだ。
だって、唐突に心にあいた暗闇のような空洞を表す言葉が、全く見つからないのだから。
そして、を現実に引き戻したのは、手首を掴む確かな力だった。
「」
名前を呼ばれ、はっとして振り向くとジョーノがいた。
久々に名前を呼ばれたような気がする。
見上げたジョーノは、ひどく複雑そうな表情をしていて、それが何故か可笑しかった。
あんたはいつも能天気な位が丁度良いのよ。
声には出さず心の中で呟くが、それがジョーノに聞こえるはずも無く、まっすぐに彼女を見る彼は、低く口を開いた。
「行くぞ」
命令口調ではなく、優しい口調でもなく、けれど深い声は、ゆっくりと力強くの腕を引く。
まだ現実と夢の間にいるような感覚で、はジョーノに引かれるまま足を動かした。
気が付けば光のあふれる中庭にいて、手を離したジョーノがぽつりと言った。
「大丈夫、か……?」
「……」
無言で頷く。
ちらりと見上げたジョーノの髪が、きらきらと陽光を反射して、まぶしい。
そうだ。最後に見たマハードも、朝の光を反射してきらきらと光っていた。とても堂々としていて、格好良かった。
「……」
無言で手を伸ばしたジョーノの髪はの指先できらきらと流れる。
「と、……?」
困惑を隠せないジョーノ。
その髪から手を離し、は目の前の幼なじみを見上げた。
「なんで……?」
「え……」
「なんで、マハード様? マナは、マハード様を待ってたんだよ? どうして? 待つ人がいるのになんでマハード様がいなくならなきゃいけないの?」
教えてよ、ジョーノ。
「マハード様は、帰ってこなきゃいけないのに。違う?」
声は淡々と。
伸びた細い指が彼の服を掴んだ。
教えてよ。
そう言うの声は、微かに震えている。
「私は泣けないのに、マナはあんなに泣いて悲しんでるじゃん。なのに、マハード様は帰ってこないなんて……」
そんなの、変でしょ。
力無い声と共に滑り落ちた雫がひとつ。
かける言葉も見つからず、ジョーノはの艶やかな黒髪にそっと手を伸ばした。
だって君は、あふれる悲しみを
隠しもしないのだから。