朝駆ける光

 辺りは朝の光に包まれてゆく。
 日の出前には王宮の門が開き、今日の食材を運ぶ商人の列が王宮へと入っていくだろう。
 それに紛れ込み王宮へ帰る事になっていたは、ちらりと東の方向を見て舌打ちをした。
 遠い空、地面の上に目を刺す光が現われようとしていた。
 日の出が、早い。
 何より時間が過ぎてゆくのが早すぎる。
 一端その頭を見せれば、太陽はゆっくりとそして確実に世界を金に染め上げる。
 朝日に染まる街。人々の起床の時間。その街の奥に聳える、黄金の朝日に輝く王宮。
 恐らくもう門は開いているだろう。
 マナはきっと心配している。夜明けが来ても自分が帰ってこない事に。
 ジョーノはもう目覚めただろうか。目が覚めて自分がいない事に気付いたら彼はどうするだろう。
 は意識して王宮の事を考えた。
 そうやって砂漠に飛んだ意識を自分の中に戻してゆくのは昔からの習慣で、初めてあの砂の海に飛び出した頃からやっていた。
 一度砂漠の中に捨てられた日常の雑多な事や、頭の中でもつれあって難解になってしまった問題は、再び頭に集まるときにその本質だけを持って帰ってくる。
 そして見えてくるのは、またひとつ新しい世界。

「よし! 大丈夫!!」

 言い聞かせるように一言口にして、ただ前を見つめた。
 疲れが無いと言えば全くの嘘になる。それでも馬を走らせて、そして自分の足で走った。
 穏やかで、確かな力強さのある朝の街を必死の形相で走る姿はきっと、ひどく浮いているのだろう。
 そう思って微かに浮かべた苦笑も、横腹の痛さに引きつった。

 どうか無事に帰れますように。

 心の中で呟いた時、彼女の目に映ったのは仰々しい行進の隊列。
 思わず立ち止まり、は目を見開いた。

「ま……マハード、さま……?」

 擦れ声の呟きは届くはずも無く、ただ立ち尽くすの視線の先。隊列の前方で馬の背に座る青年は、見間違うはずも無い神官団の一人、マハードだった。
 背筋を伸ばし、凛々しい瞳でまっすぐに前を見つめる彼の胸では、朝日を受けまばゆく光を反射する千年宝物。

「……ど、どういう事……?」

 未だ納まらない息。
 疲れてはいるが、今日の予定を忘れる程では無い。
 今日、彼が視察に出るとか巡回をしなければならないとかの行事は無かったはずだ。しかもこんな早朝に。仮にそんな予定があったとしたら、真っ先にマナが言ってくるだろう。
 では目の前の行進は一体何なのだ。
 理由が思い当たらず隊列の後方に目をやれば、神官と兵士たちに守られるように運ばれる巨大な石板。
 そして見覚えのあるそれに掘られた絵柄は全くの無地。
 それが意味するのは彼らが運ぶ石板にはまだ魔物が封印されていないという事。
 カーと呼ばれる魔物を封印するための石板は、そこにカーが封印された時、封じられた魔物を示す絵が浮かび上がる。
 例えばのカーである漆黒の竜が石板に封印されたならば、そこには黒竜の姿が現れるだろう。

 整然とした足取りで進む隊列を見送りながら、はただ立ち尽くしていた。
 流れてゆく同じ後ろ姿の神官と兵士と、彼らを指揮する若い神官。
 胸の辺りをぎゅっと掴んで唾を飲んだ。
 気付けば息は整っていたが、今度は胸の中が妙にざわついていた。

「……早く、帰らないと……」

 再び言い聞かせるように呟いた彼女は、マハード率いる隊列とは反対の方向へ駆け出した。

 案の定、城門の辺りは商人たちと時間の割には多い民衆で僅かに混乱していた。
 マハードの行進に不安を感じたのだろう、何があったのかと門番に問う人の陰、商人の荷の後ろでは用意していたストールを被り小さく顔を伏せた。
 目線だけで門兵を見れば、それはジョーノとつるんでいる所を良く見かけた青年だった。
 どうか見逃してくれ、と願いながらゆっくりと進む商人の流れに乗る。
 人は予想していた以上に多く、心臓は破裂するんじゃないかと思う程高鳴る。
 早くマナに会わなくては。
 マハードがあの石板で何をしようとしているのか。
 胸騒ぎは明らかに今までの物と違う。
 第六感が騒ぐのでは無く、黒竜が啼いているのだと、自然にそう感じた。
 啼き声が叫びになる前に。
 早く王宮に入らないと。

 じわりじわりと進む列。に声をかける人間は無い。
 それでいいのだ、と思うと同時に本当に大丈夫なのだろうかと不安が影を落とす。
 兵の前に差し掛かる時、ストールの影から見た彼はには気付かない様子で、荷車を押す振りをした彼女は小さく息を吐いた。
 大丈夫、と心の中で繰り返し呟いて前を見たその時だった。

「お前はこっちだ」

 有無を言わせない声と同時に腕を引かれ、商人の列から引き離される。

「あ……!?」

 思わず漏れた声は呟きにすらならず、ぐいぐいと腕を引かれるままにざわつく門から遠ざかる。
 肩にずれ落ちたストールはもう顔を隠すための役割を果たさず、門番の兵は驚いたようにを見ている。
 どうしよう、どうなるんだろう。
 まっしろになった頭の中で輪のように回る言葉につられるように、腕を引く兵士を見上げは目を見開いた。
 そこにあったのは濃い小麦色の髪に茶色の瞳。
 良く見慣れた横顔が明らかな怒りを浮かべた表情で前を睨み付けていた。

「ジョーノ?」

 名前を呼んでも返事は無く、腕を引く力も弱まる事は無い。
 これは相当怒っているのだと言う事は幼なじみでなくてもわかっただろう。

「ね、ねぇジョーノってば」

 再び名前を呼んでもやはり答えは無く、前へと進む大きな歩幅が小さくなる事も無い。
 彼を眠らせた事がその原因なのか、王宮から飛び出した事が原因なのかは解らないが、ジョーノは滅多に見ない程怒っている。
 この無言が何よりの証だった。
 昔から彼は心底機嫌が悪い時は決まって無口になるのだから。

「ジョーノ、ごめんってば。謝るから。だから手ぇ離してよ」

 流石にやりすぎた自覚はある。

「ごめん、ジョーノ。私が悪かったよ」

 本当はしてはいけない事をしたのだ。無茶も承知の上での事。罰を受けるだろう事も分かっていた。
 自分を見張っている彼も、きっとお叱りを受けるのだと思うと少し悪いことをしたと思う。

「私のせいでジョーノも叱られるんでしょ? だから怒ってるんでしょ? ほんとにごめん」
「少しは自分の立場を考えろよ」

 三度目の謝罪の言葉を遮るように返された低い声に、足が止まった。

「謝ればいいってモンじゃないだろ。お前、何考えてんだよ」

 茶色の瞳は静かな怒りに満ちてを見下ろす。確かな刺を隠しもせずにジョーノの言葉は流れる。

「マナもマナだよ。お前のわがままに付き合うなんて、どうかしてるぜ。挙げ句、最後はマハード様の王墓警護に付いて行くだの、だからお前を迎えに行けだの。二人揃ってお前らどうかしてる」

 睨み付けるような目を一旦逸らし、ジョーノはまたを見た。その目付きは更に鋭くなる。

「大体お前は自分の立場がわかってんのか? どうなるのか知っててやってんのかよ」
「わかってるよ!」

 段々早くなるジョーノの言葉に反射的に言い返すと、それは止まらなくなった。

「私が普通じゃない事なんて知ってるよ! 早く一人前にならなきゃいけない事も、ジョーノに言われなくたってちゃんとわかってる!!」

 一度溢れた言葉は選ばれる事無く空気を震わせる。

「それでも最後に私は行かなきゃいけなかったの!! キサラに会いに行かなきゃ私は次になんて進めないの!! 大体なんでマナの事も悪く言うの!? マナはただ好意で手助けしてくれたんだからそんな風に言わないで!」

 本当はそんな事を言うつもりなんて無かった。

 今や到底間に合わない言い訳。それでも、口を閉ざしてしまえばまだましだったものを。
 は勢いのままに声を零した。

「あ、あんたには私の気持ちなんてわかんないよ! 念願の本部隊クビになって訳解んない私の見張りなんかしてるあんたには解んなくて当然だね!!」

 ただ、ジョーノの怒りの声を遮る事ができるなら何でもよかった。
 それでも反省していたのは本心だったのに、それすら消し去る言葉の奔流。

「シャダ様に何言われたか知らないけど、私の見張りなんて断れば良かったんだ! 頭イカれてるよ!」
「誰のためだと思ってんだよ!!」
「私のためって言いたいわけ!? 私が頼んだ!? 頼んでないでしょ!」

 加速していく声。まるであの大河が氾濫するように溢れた言葉と共に、は腕を掴んでいたジョーノの手を振り払った。

「馬鹿にしないで! 私はあんたにお守りしてもらわなきゃいけないようなお子様じゃない!!」

 赤い瞳がジョーノをひと睨みして背を向ける。
 走り去る後ろ姿に飛ばす言葉も無く、ジョーノは拳を握り締めた。

 本当は、そんな事を言うつもりなど無かったのに。

 珍しく素直に謝ってきたをわざわざ怒らせるつもりなど無かった。
 空が明るくなる頃に目覚めた時、心臓を冷たい手で撫でられたようだった。
 の知らないシャダの命令が頭の中に響いて消えず、眠りこけていた自分を呪った。
 心底心配したし、マナにを迎えに行ってくれと頼まれた時は本当に腹が立った。二人揃ってなんと自分勝手なんだと思ったが、同時に安心もした。
 は、まだ生きているのだと。
 そして謝ったがあまりに的外れな心配をした事に更に腹が立った。

 ひとの心配なんてしてる場合じゃないだろ。
 お前、殺されるかもしれないのに。
 他でもない、この俺に殺されるかもしれないのに。

 口に出すことの出来ない言葉の代わりに、ひどい事を言ってしまったのだという自覚はある。
 そして、もうその言葉は修正できない。
 は知らないし、知りようも無いシャダの命令。
 王宮にとって危険だと見なされた時、彼女は消されてしまうのだという事。
 そのためにジョーノが彼女の護衛という名目の見張り役になった事。
 は知らないし、知ってはいけないのだ。
 知ってしまえばそれは彼女を縛る枷になる。明るく奔放なは何かに捕らわれてはいけない。
 そして何より、その枷が自分である事は絶対にあってはいけない。

「馬鹿野郎……」

 握り締めた自分の拳が小さく震えるのを見ながら、ジョーノは擦れた声を零した。

「何のためだよ……!」

 念願だった王宮兵士になって、そのまま努力さえ怠らなければ近衛兵としていい所まで行けた。
 出世をしたいと強く思った訳では無いが、華やかな道を歩むことに憧れはあった。少年達の誰もがそうであるように、なれるものなら英雄になってみたかった。
 それを諦め、まだ一人前ですらない神官の護衛に回ろうと思ったのは、その未熟な神官がだったからだ。

 は幼いジョーノにとって何より大きな目標で、彼女が王宮神官になると言ったから、ならば自分は王宮の兵士になろうと決めた。
 彼女に負けたくなくて、同じものを見たくて。
 だから同じ王宮を目指した。
 なのにそこにがいないなんて、意味が無いではないか。

 まだ幼い頃に、が自分を守ってくれたように。
 今度は自分がを守るのだ。
 彼女の命が奪われる事など、絶対に許さない。
 英雄気取りだと笑われてもいい。一番近いところにいるただ一人すら守れないならば、英雄にすらなれないのだから。

 ジョーノの言っている意味が解らなかった。
 彼は決して模範生では無いが情に厚く無意味に人の事を悪く言うような男ではない。
 例えそれが自分の知り合いでなくても、『の友達なら』と信頼するような人間だ。
 何が気に入らなくてあんな言い方をしたのか。
 やはり自分が悪いのか。それならマナの事まで出す必要があったのか。
 考えても他に心当たりの無いは、怒りに任せて走りながら回廊を曲がる。
 と、まるで見計らったように声が飛んできた。
 聞き慣れた声は、聞き慣れた調子での名を呼ぶ。

! 王宮内でみだりに走るなと何回言えば解るんだ」
「……シャダ様」

 振り返れば呆れたような師匠の顔。

「大体こんな時間にこんな所で何をしている?」

 間違ってもその問いに素直に答える事は出来ない。代わりに俯くと、シャダは溜め息と共に数歩近づいた。

「マハードが急に出ていって落ち着かないのは解るが、お前はマナとは違う。今まで通りでいいんだ。マナも、また修練を始めると言っているのだから」
「マナは……マナはどこにいるんですか?」

 慰めるような声に問い掛けると、シャダは目を伏せる。
 それだけでマナがひどく沈んでいるのだと言う事がわかった。
 やはり、マハードの出立は急なものだったのだ。

「修練場に。マハードが帰ってきた時驚く程魔術を上達させると言っていたが……」

 恐らくそれは強がりに違いない。シャダもそれに気付いているらしく、表情は僅かに暗い。
 マナがマハードをひどく慕っている事は、誰もが知っていたから。

「マナ、マハード様にお供しなかったんですね」

 彼女はマハードが行く所ならば必ずと言って良い程同行している。長くなる旅ならばなおのこと、無理を言ってでも供をしていた。
 マハードも、余程の事が無い限りそれを許可していたから。

「今回は急だったからな。それに、今回の彼の任務は王墓警備だ。そこにマナを連れていくなど、考えられない。もっとも、マナはかなり駄々をこねたようだが」

 置いてきぼりを食らったマナはシモンに食ってかかったという。
 何故、最高位の神官である神官団から王墓警備のために王家の谷への派遣が必要だったのかと。

「シャダ様、私、マナに会いに行ってもいいでしょうか」

 マナの心中を察すると胸が痛い。早く会って励ましたかった。それに、昨夜の礼も言いたい。
 しかし、シャダは首を縦には振らなかった。

「今はそっとしておきなさい。落ち着き無い今のお前が行けばマナの気も乱れる。何があったのかは知らないがもっと気を落ち着けてからにするんだ」

 いつもと変わらない、静かな湖面のようなシャダの瞳。
 口をつぐむと、彼はの肩に手を乗せた。

「私はファラオのもとで会合がある。今日は一日ゆっくり休みなさい」
「はい。ありがとうございます」

 頭を下げ、シャダの背中を見送った。
 何も知らないはずの彼の言葉は、時に全てを見通しているのかと思う時がある。
 今も、一瞬どきりとしたがシャダはただ弟子を労っただけなのだと思い直す。
 心残りこそあれど、シャダが今は止めておけと言うのだから従わざるを得ない。
 さっきのジョーノとのやりとりでひどく気が乱れているのも確かだ。
 他人の気の乱れに左右されるような魔術師は未熟であり、一人前には程遠い。
 マナはよりもずっと早く修行を始めてはいるが、その点においては他の同世代の少女達と同様にまだ不安定な面が目立った。
 もちろんに至ってはまるで問題外だったが。
 マハードの旅立ちで気の揺れたマナの所に今の自分が行けば、彼女の邪魔になるだろう。彼女が今修練場にいるのならなおの事。
 仕方無いが今日は大人しく部屋に戻る事にした。急がずとも、時間はたくさんあるのだから。

 深呼吸して見上げた空は遠く青く、その眩しさには目を細めた。
 この空の下にはキサラがいて、マハードもいる。
 自分が、そしてマナが会いたいと、傍にいたいと願う人たち。

「空が一緒なら、地面だって同じにすれば良かったじゃん。神様の意地悪」

 この大地は驚く程に広大で、全てを回るには人間は小さすぎる。
 空はどこから見ても同じなのに、何故大地は同じではないのだろう。一見変わり無い砂漠でさえも、見渡せば姿は違う。
 もしも大地が空と同じにどこも一緒ならば、きっと人間はすぐに会いたい人に会いに行けたのに。

「私はすぐキサラに会えるし、マナもマハード様にすぐ会えるのにさ。地上は広すぎるよ」

 溜め息と共にこぼした愚痴は空気に溶けて、はゆっくりと歩きだした。

穏やかな日々。
明るい空のような時間。
それが崩壊する叫びにすら、
気付けなかった。