夜明けの約束
心ここにあらず。
の状態を現すに最適な言葉。
マナは少し困ったように友人の顔を覗き込んだ。
「、大丈夫? 最近ずっと上の空じゃない。そんなじゃ、魔術も上達しないわよ?」
その言葉にはっとしたようにマナを見て、は小さくうなだれる。
「ごめん、マナ。折角教えてくれてるのに……」
まるで元気の無い声に、マナはの手を取った。
「何か悩みがあるなら言って? あたし達、友達でしょ?」
が何かを気に掛けているのはだいぶ前から気付いていた。
気になってはいたが、そういう事は本人が言うまでそっとしておくものだ、とマハードに言われていたので我慢していただけで。
しかし、あの日以来は今までに無くぼーっとする事が多くなった。
「あの……ありがとう、マナ。けど大丈夫だから」
そう言って笑うが、心から笑っていないとマナはすぐに気付く。
「大丈夫じゃないじゃない。ジョーノも心配してたよ?」
あの日以来、何故かの護衛をする事になったジョーノ。
マナはその理由を知らないが、きっと何かあるのだ。
そうでなければ、まだ見習いのに護衛など付く訳が無い。そして、全く別の隊にいたジョーノが急に神官の護衛に回される筈も無い。
難しい事は良く分からないが、何かが確実に変わっているのは感じられる。
「あたし、まだ分からない事だらけだけど、友達が悩んでいる事くらいわかるよ?」
そして、全てが大きく変わろとしている事も。
「お師匠様も相変わらず……ううん、お師匠様だけじゃない。神官団の皆がずっとピリピリしてる。王宮じゅうが、緊張してるみたい。なのにまでそんなだと、あたし嫌だよ」
しゅんと、うなだれるマナ。
置いて行かれるような感覚と、大好きな人たちに秘密を作られる寂しさ。
の手を握る手に、知らず力が入った。
俯いた目をあげようとしたとき、の声が降ってくる。
「ごめんね、マナ。そうだね、私らしくなかったかな」
そっと離れた手が、マナの頭に伸びる。
「だからそんな悲しそうな顔しないでよ。困っちゃうからさ」
顔をあげると、にっこり笑う友の顔。
それがあまりに胸に染みて、マナは思わず口を閉ざした。
だから笑いなよ、と言いながら頭を撫でてくれるはとても優しくて、この寂しさが錯覚ならば良いのにと、思った。
その時初めて、マナは自分もまた不安だったのだと気付いた。
「やり残した事があるの」
しばらくして、は口を開いた。
その言葉に、を見ながらマナは首を傾げる。
「友達に会いに行く事にしてたの」
ただ一文で終わる短い言葉。
けれど、そう言うはまるで泣きそうな表情。
「連絡も取れないから、きっと心配してるわ」
微笑みはひどく優しく、けれどマナには彼女が今にでも泣きだすのではないかとすら思われた。
「簡単に王宮を出ることができないのは知ってる。けど、それでも会いに行きたいの」
誰よりも大切な友に。
元気にしているか、怪我はしてないか、ちゃんと食べているのか。
たくさん語れなくてもいい。
彼女の笑顔と、声さえ聞けるのなら。
それに、ここしばらくずっと胸を覆う理由無き予感。
「今会いに行かないと、多分……」
そこで悩むように言葉を切り、小さな間の後呟く声は力無く零れ落ちた。
「二度と会えないんだと、思う……」
しゅんと空気に溶けた言葉。
は俯いて自分の手の平を見つめている。
そんな彼女を見つめながら、マナは口を開いた。
「じゃあ会いに行けばいいのよ」
ひどく鮮明に響いた声。
驚いた顔でマナを見る。
数度の瞬きを見送って、マナは立ち上がった。
「会いにいこう! あたし、協力するよ!!」
笑いながら言うマナに、驚きを浮かべたままの表情では答える。
「何言ってるの!! ただでさえ王宮は殺気立ってるのに、そんな事できる訳無いでしょ!?」
知らず声が低くなるのは、あまり大きな声で言う話題では無いから。
「それに、今はジョーノが私を見張ってる。王宮を抜け出すなんて無理だわ」
突然のシャダの命令。
ジョーノはの護衛をするように、との言葉を聞いたのはつい先日の事だった。理由の解らないその命令の裏で彼らにしか解らない何かがある事だけを感じ取った。
苦笑すると、こちらを見下ろしたマナが「大丈夫」と片目を瞑る。
「あたしがちょーっと魔法を使えば、そんなの簡単よ!」
自信満々に胸を叩くマナに、そんなに簡単に王宮を出れるのなら厳重な警備の意味が無いのではないかと思ったが、それは言わなかった。
規律を乱すことになるのに、それでも協力すると言ってくれる気持ちが嬉しかったから。
かくして、実行はその夜。
はマナの協力のもと、王宮を抜け出す事になった。
ひょっこりと顔を覗かせて笑うマナ。
が机から立ち上がると、手を振りながらマナは室内へ入ってくる。
「ジョーノには眠ってもらったよ! 、王宮を出るまでの道順は覚えてる?」
「大丈夫よ」
問いに頷く。
昼間に話した道順は、何度も頭中で繰り返し復習した。間違えようも無いし、忘れてもいない。
王宮を知り尽くしているマナの、即席の割にはかなり良く出来た計画。
「じゃあ早く行って、! 通り道の衛兵は皆眠ってるけど、誰かが通ればすぐバレちゃう!」
急かされて、駆け出す。
門から外に出たら、馬を隠してある。それに乗って、夜明けまでに帰ってくる事。
それが最低限の約束で、その間のフォローはマナがする事になっている。
見つかれば叱られるし、真っ先に罰を受けるのもマナになってしまう。
その役を引き受けてくれた彼女のためにも、必ずキサラに会って、帰ってくる。
「ありがとう、マナ」
後ろを付いてくるマナに声をかけた。
「何言ってるの。お礼はちゃんとしてもらうからね? ほら、いくよっ!!」
城壁の目の前。マナは取り出した杖を手に、の知らない呪文を唱える。とたん足元からふわりと宙に浮き、マナの杖の動きに合わせて城壁の高さを越える。
先日、マナは浮遊させる魔法はまだ苦手だと言っていた筈なのに、今日はしっかり成功していた。
「ありがとう、マナ……」
聞こえないと解って、再び呟いた。
わざわざ危険を犯してまで協力してくれた彼女のためにも、急がなくてはいけない。
空に浮かぶ薄い月を見上げ、は馬の繋いである筈の場所へ急いだ。
「頑張ってね、」
呟いたマナは、王宮の方を振り返った。
静かな闇に包まれる王宮。
が帰ってくるまで、ばれないようにしなくては。
今になって手が震えている事に気が付いた。
緊張は思った以上に大きかったらしく、意識して大きく深呼吸をした。二、三回腕と首を回して足踏みをしてから、王宮に向かって走りだす。
眠りこける兵士たちの脇を通りすぎ、良く知る王宮の庭を迷い無く進むと、そこに見知った人の姿を見つけた。
内心にやりと笑って、マナは手近の坪の中に身を潜める。ごめんなさい、お師匠様。そう謝る事も忘れずに。
夜はまだ始まったばかり。
けれど、この夜は彼女にとって忘れられない夜になる。
慣れない馬に若干戸惑いながら、真面目に訓練を受けていて良かったと思った。
そうでなければ、夜の砂漠を馬で移動する事など到底できなかっただろう。
夜風は冷たく、熱い身体と裏腹に頬はひやりと冷えていた。
一年間通る事の無かった砂漠の道を馬の上から見遣りながら、拭えない不安を感じる。
それは日に日に大きくなっていって、確たる証拠がある訳でもないのにの中では確かな現実になっていた。
キサラが、いなくなる。
理由ならたくさん思い浮かぶ。
旅から旅を繰り返していたと、以前そう語った彼女だ。今、ここに留まる理由が無ければまた旅に出てしまうかもしれない。
それに、ここは決してキサラにとって住みやすい土地では無かったはずだ。
強烈な日差しと、水の少ない広大な砂漠。食糧だって、オアシスや街に行かなければ手に入れる事はできない。
それなら、もっと住みやすい所へ移動しようと考えるのはごく自然な事だ。
そうやって旅をしていれば、次はキサラのように白い肌の人々の暮らす国にも辿りつけるかもしれない。
でも、それならまだましだ。
最悪、奴隷商人にでも捕まってしまっていたら、今頃彼女は……
そう考えて、泣きそうになる。
引き止めるべきでは無かったのだろうか。
ずっとこの街にいて、と言ったのはやはり迷惑だったのだろうか。
それでも、心は叫ぶ。
キサラに会いたい。
ただ、会いたい。
「ごめん、キサラ……」
呟きは風に流される。
「でも、お願い、待ってて……」
どうか、あの場所で変わらずに。
前のように優しい笑みを浮かべて。
ざわつく心は収まる事を知らず、むしろ嫌な予感はますます大きくなる。
一体何が不安なのか、何を予感しているのか。
それさえ定かではないけれど、今自身が不安に思うのはキサラがいなかった時のこと。
きっと立ち直れない。
笑ってマナの所へ帰れる気がしない。
高く昇った薄い月が、また傾き始めて、は目的の場所を目に留めた。
手近の岩に馬をつなぎ、小石の転がる地面を走る。
暗い夜の闇の中でも、通る道はまるで光っているように良く見えた。
心臓が壊れるのではないかと思うほどどきどきしている。ごくりと息を呑んで、見慣れた洞窟の入口に立つ。
「キサラ……!!」
声は自分で思うよりも大きく洞内に響き渡り、反響して消える。
しんと静まり返る闇。一歩足を動かせば、じゃり、と足元の砂が鳴いた。
「き……きさら……?」
中に入れば人の気配はまるで無く、一年前と変わらないそこには、見慣れたキサラの生活用品が揃っていて。
「……いない、の……?」
呟きはまた、反響して消えた。
立ち尽くした足が震える。目が痛くて頭も痛い。無音が耳にも痛い。
何も考えられなかった。むしろ考えたくもなかった。
ひとこと浮かんだ言葉が頭と心を支配する。
キサラはもうここにはいない。
遅かった。
遅すぎた。
それが自主的な旅立ちだったのか、それとも誰かに捕まったのか。いや、もしかしたら一緒に旅をする仲間が見つかったのかもしれない。
けれど旅立ちの理由は今となっては知る事が出来ないし、彼女がここから去っていったという事実は変わらない。
幸せな旅立ちだったことを願うしか、出来ない。
ぼとり、と音を立てて松明が足もとに落ちる。それに釣られるようにしては地面に座り込んだ。
「キサラ……ごめんね……ごめんね、キサラ……」
言いたい事が、まだたくさんあった。
話したい事も、また増えていた。
そして、二人でやりたい事も、山ほどあった。
「会いたいよ……」
迷惑かもしれない。
我が儘なのだと、思う。
それでも今ここにいない彼女に会いたい。
「キサラに、会いたいよ……」
反響する声。
静寂の支配する闇の中に、答える声はもう無い。
無いと、思っていた。
「私も、会いたかったわ」
さらりと闇を拭う温かい声。
じゃり、と地面が鳴いて、その音が数回続く。顔をあげたがゆっくりと後ろを振り向くと、そこには闇の中でもわかるほどの光を纏った友がいた。
「きさら……?」
「ったら、ひどい顔」
名前を呼ぶと、微笑みが返ってくる。
松明の光を反射する白銀の髪も、柔らかな蒼空の眼差しも記憶と何も変わらない。
熱い目が、余計に熱くなって、その姿はぐにゃりと歪んだ。
それが余計に悔しくて、そしてその隙に目の前の人が消えてしまいそうで、反射的に腕を伸ばしてキサラを抱きしめた。
少し痩せ過ぎのキサラの体はすっぽりとの腕に収まって、それでも生きているその温かさは確かに伝わってくる。
ぼろぼろと出てくる涙は、多分嬉し涙。
わんわん声をあげて泣くと、いつかと同じせりふが耳元で聞こえた。
「そんなに泣くと、ナイルが溢れちゃうわ」
ぽんぽんと背中を叩いてくれる優しい手は、やっぱりいつかと同じで。
この場所は変わらずに、ここにあっのだ。
ただそれだけが、異常に嬉しかった。
一度、街の近くまで行ったの、とキサラは口を開いた。
目を見開くにゆっくりと続ける。
「この前……王宮に光の柱が上がったのを見て。の事が心配になって街まで行ったんだけれど……」
そこで言葉を切って、キサラは俯いた。
「何だか様子がおかしくて……」
彼女が言っているのは、先日王宮に盗賊が侵入した時の事だ。
はその場に居合わせてはいないが、その盗賊は街にも火を放ったと言う。
街は今でも兵士がうろついて厳戒態勢を取っているし、たとえ今でなくてもその日の混乱した街にキサラが行けば、異質なモノとしてどんな目にあわされたか解らない。
むしろ、引き返してくれていて良かったのだ。
「心配してくれて、ありがとう」
キサラの細い手を握って、は笑みを浮かべた。
「私は大丈夫だよ。それよりもキサラの方が心配だったんだからね? ……いなくなっちゃったのかと、思ったんだから」
小さくなる語尾に、キサラはまさかと首を振る。
「だって、待つって約束したじゃない。私、に何も言わずに旅に出たりしないわ」
優しい微笑。
それは記憶と寸分違わず、そして記憶よりほんの少し大人びていた。
「――っ……キサラ……!!」
思わずまた彼女の首に抱きついて、は腕に力を込めた。
「ごめんね、キサラ!! 私が変な約束したから行けなかったんだよね……ほんとは、もっとキサラが幸せになれる場所がある筈なのに、私が引き止めたんでしょ……!?」
キサラは義理堅いから、何も言わずに行くと自分が落ち込んでしまうと思って。
一年間、一人で待たせてしまった。
それは、どんなに孤独で寂しかっただろう。
なのにその間、自分は新しい友達もできて、新しく師匠もできて、何だかんだ言いつつ幸せだった。
「ほんとにごめん……!」
何度目かの謝罪の言葉。
そっと身体を離したキサラの白い指がの頬に伸びた。
「ばかね、。私はあなたがいない世界なんて嫌よ。あなたが、私に楽しい事や幸せな事を教えてくれたの。また会えると解っていたから、寂しさも忘れられた」
ひやりと冷たいその指先は、それでも温かい。
瞬きを繰り返すに言い聞かせるように、キサラはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「のいない場所にいて、そこに私の幸せは存在しないわ。待ったのはのせいじゃない。私の意志なの」
青い瞳がを見つめる。
偽りの無い証だと言うように、まっすぐと。確かな力を込めて。
「だから、謝らないで? 久々に会ったんだもの、笑ってよ。ね?」
涙は見たくない。
そのために長い間待ったのではないから。
ただ、また笑って再会できる日を待ち続けたから。
「ありがと……キサラ……」
頬に触れた手に自分の手を重ねて、目を閉じる。
ここまで来た理由。
その微笑みを見るため。
彼女が無事で本当に良かった。
顔を見れるだけで、声を聴けるだけで、心はあたたかなぬくもりに満たされる。
あの日、から今日まで。
話したい事は増えて、話せない事も増えた。
目標ではなく義務として、到達しなければならない場所も見つけた。
「キサラ、私……」
とんでもない魔物を飼ってるみたいだよ。
「キサラが大好き」
あなたを、この黒竜の力で傷つけたりしたくないから。
「だから、それだけ、覚えてて?」
絶対な安全を作れるまで、会いには来れない。来ない。
不思議そうに瞬きをするキサラに胸が痛む。
いつもそうだ。
離れたくないと言うのはいつもこっちなのに、自分から別れる道を選んでしまう。
それでもキサラは絶対に怒ったり泣いたりしなくて、それはいつも自分の役目。
ごしごしと目を擦って、はちらりと外を見る。
闇の薄れる砂漠は、もう夜明けが近い事を示している。
少しでも明るくなってくれば、夜明けなどあっというまだ。
「……戻らないといけないんでしょう?」
キサラの気遣う声にひとつ頷くと、白く細い指がぎゅっと手を握った。
「とても嫌な予感がするの。……こんな事を言うのは間違っているかもしれないけれど……」
王宮には近付かないで。何か良くない事が起きるわ。
その言葉は、喉に引っ掛かる。
はその王宮にいるのだ。
近付かない訳にはいかない。問題外もいい所ではないか。
「気を付けて、ね?」
それは、嘘つきな言葉。
気を付けてと送り出す位なら、危険な場所になど行かせたくないのに。
けれど、行かないでと言えばを困らせるだけ。
「私、ここで待っているから」
また会えると言う、約束。
それだけが、二人を繋ぐ。
「大丈夫。心配しないで? 少し時間がかかるかまもしれないけど……私はここに帰ってくる」
そして答えるの言葉も、二人を繋ぐ約束。
何より強固な約束。しかし、ともすれば脆く崩れてしまう約束。
いつかと同じようにこの場所から離れる。
彼女を見送りながら、キサラはぎゅっと手を握り締めた。
闇の中へ帰っていく彼女は、明けるはずの夜に溶けてゆくようで、胸に広がる不安はより大きくなっていく。
泣かないと決めたのに、自分の目に涙が溜まっている。
置いて行かないで。私も一緒にいきたいの。
その言葉は、空気を震わせる前に涙と共に砂漠に落ちた。
あなたとがいい。
もしも次に旅立つならば、
今度はあなたと旅立ちたい。