黒鳥の夢
ただ必死に走った。
砂漠を出て最初に見つけた厩で馬を拝借して、昼間歩いた道を駆ける。
静かなはずの夜の闇はあちこちであがる火の手と人々の喧噪でざわめき、確かな混乱がそこにはあった。
王宮に近づくとそれはさらに増し、兵が街の中をうろついている。何があったのかと聞きたくても、彼らから放たれるぴりぴりした気配はそれすら憚られた。
何より今はもいる。彼女の事も気掛かりで、それがジョーノの焦りをさらに大きくし、王宮への道を急いだ。
東の空が白みはじめる頃に到着した王宮の門には顔見知りの兵がいて、ジョーノはかすれた声で「お疲れさん」と右手をあげた。
そうしながらも感じる、いつもより張り詰めた空気。
いつもの朝と違う事が、門の中からも伝わってくる。
「ジョーノ!? お前、どうしたんだ!?」
目を見開く知人に小さく苦笑して返す。
「悪ぃけど、神官団のシャダ様に至急連絡して欲しいんだ。愛弟子が帰ってきたから、迎えに来てくれってな。俺一人じゃ重くて」
顎で示した先には馬の上で瞳を閉じた。
「お前……何やらかしたんだ、ジョーノ」
顔を強ばらせた兵にジョーノは目を伏せる。
「何があったのか知りてぇのは、俺だよ。ありゃ一体何なんだ?」
立ち上る光の柱。
幼なじみの異様な瞳の光。
カーがいる、と言ったのここではない遠くを見ているような表情。
背筋がひやりとしたのは、間違いなく恐怖だった。自分の知らない、未知のものへの恐怖。
そして街ではここ何年も類を見ないような厳戒態勢。
「俺がいない間に、何があったんだよ」
「盗賊が王宮に乗り込んで来たんだ」
溜息と共に呟かれた言葉に、ジョーノは「はぁ?」と問い返した。
多くの兵に守られ絶対安全のはずの王宮に、なぜ盗賊ごときが侵入できるのだ。
さらに詳しく聞こうとしたが、それは遮られた。
「詳しくは後だ。中も外も今は大忙しだ。しかもお前は気を失った神官のお嬢さんを連れて帰ってきたとくる。全く、タイミングが悪い」
その門番は笑おうとしたのだろう。
だが、力の無い頬笑みはなんだか空しく、ジョーノは困ったように頷いただけだった。
そうこうしている内にシャダの使いだという人間がやってきて、シャダの使っている区画に通された。
は途中で別の神官らしき男がやってきて抱えて行った。
あいつ寝心地の良い寝台に寝かせてもらえるといいな、とどうでもいい事を考えていると、すぐに応接用の部屋に着く。
失礼します、と挨拶をして入れば、そこにはすでにシャダがいた。
まっすぐに背筋を伸ばし冷静で知的な瞳でこちらを見る。
それは、いつも遠くから見ている通りの姿だった。
シャダが何か言うより先にジョーノは口を開いた。
「一体何があったんですか。王宮に来る途中でもあちこちで火があがっていました。兵士も街をうろついているし、昨夜のあの光も……それにシャダ様、は一体どうしちまったんだ? まるで化け物のように目を光らせてどこかを見ていた。あんなあいつ、俺は知らない」
生気に満ちた瞳は、まるで宝玉のようだった。
あの瞬間、確かにはあの砂漠ではないどこかを見ていた。
「は、あんな目はしない」
絞り出すように低く呟いた言葉。
そしてしばらくの間。
「黒竜を見たのか」
発せられた問いは微かに震えているように聞こえて、ジョーノは眉を寄せた。
「こくりゅう?」
反芻する言葉に覚えは無く、見上げたシャダの表情は固い。
怒られるのかと、思った。
いや、そんなものではない。
間違った返答をすればもう二度とには会わせてもらえないのだと、確信めいた予感。
シャダは張り詰めた声で再び問うた。
「お前は黒竜を見たのかと聞いている」
息を吸う唇が震える。
きっとファラオの前に出たってこうはならないと、彼は思った。
目の前の神官から放たれる気迫に負けている。こんなんじゃ、またに笑われちまうと、内心呟く。
「……俺は、黒竜なんか知りません。俺が知りたいのは、の事だ」
誰よりも目標だった幼なじみ。
一体この一年で、彼女に何が起こってああなったのか。
その答えは誰でもない目の前の神官が知っている、
そして昨夜王宮で何があったのかも全て、目の前の神官は知っている。
「あいつは人間だった。どんなに血みたいな色してたって、あいつの目は人間のあったかさがあったんだよ!」
けれど昨夜の砂漠で、それは変わった。
ただ前だけを見る光放つ紅の瞳。
ほんの一瞬のそれは、一瞬だったが故に鮮烈に頭に残った。
いや、彼女がずっとあのままだったならば、きっと自分はひとり走って逃げだしただろう。
「あんたら一体に何したんだよ!?」
叫ぶような問いに、シャダはゆっくりとジョーノを見た。
* * *
目が覚めたらぶん殴ってやる。
平手なんて可愛いもんじゃない。グーで殴ってやる。
薄れる意識の中でそう思った。
そして今、彼女は夢を見ていた。
目の前には大きく巨大な黒竜がいて、腕を伸ばせば嬉しそうに顔を寄せてくる。
その瞳は、彼女と同じあか。
炎の紅。血の赤。暮れる空の夕陽の朱。
どれに例えようとも、それは紛れもなく彼女と同じあかだった。
「あ、おそろいだ」
瞬きをして言えば、竜も同じように瞬きをする。
巨大でいかにも恐ろしい竜が瞬きをする様はどこかおかしくて、は思わず笑う。
「お前可愛いねぇ」
言いながら、伸ばした手で竜の鼻先に触れる。
低く唸るその声は、まるで喉を撫でられた猫のようだ。ひやりと固い竜の身体が、指先に心地いい。
この竜は何故ここにいるんだろう。
そう思ってから、閃いた。
「お前、私のカーなんだね?」
泉に波紋が広がるように、考えは広がり重なって答えを導きだす。
嬉しそうに唸る黒竜は、の問いを肯定しているようだった。
「竜かぁ……すごい!!」
言って竜の首に抱きつくようにしがみついた。
やっぱり固くて冷たい竜の体。
と、その手に何かあるのを見ては一歩離れた。
きらきら光る石のようなもの。
それは黒竜の手の中で柔らかい光を放っている。
首を傾げて見上げた黒竜は、の考えていることが解るのか低く啼いた。
これが、私を束縛している。
確かにそう聞こえた。
男なのか女なのか。音として聞こえたのか心の中で響いたのか。
それすら分からない。
けれど確かにには聞こえた。
この封印が、あなたと私を隔てている。
「それ、どうすればいいの?」
思わず問うと、また竜は啼いた。
同時に辺りがぐるぐる回るかのような目眩に襲われる。
立つ事も困難な大回転。
動けずに息を飲み込んだは、確かに竜の叫びを聞いた。
目覚めなさい。あなたが目覚めなければ、私は動けない。
そしてあなたもまた、動けない。
彼女はその身に大きな魔力と、強力なカーを宿している。
それは神官の素質。
そして王宮の戦力。
惜しむらくは、彼女にはまだカーを操るだけの能力が備わっていないこと。にも関わらず、彼女のカーは主の危機にその姿を現すことができるということ。
制御されていない魔物は人々にどのような危害を与えるか定かでなく、彼女の力とカーの暴走を恐れた私は彼女の心ごと、彼女のカーを封印した。
勿論、その時が来ればその封印を解くつもりで。
* * *
信じられない、とジョーノは呟いた。
茶色の瞳には怒りが浮かぶ。
「いくら神官様だからって、人の心をいじっていいなんて事、無いはずだろ」
「勿論だ。心に術をかける事は基本的に禁止されている。術者にも、術をかけられた者にも大きく影響を及ぼすからだ」
冷静に返される答えは、ジョーノをより一層いらいらさせる。
「じゃあ今すぐ解けよ、その封印とやらをよ!!」
怒鳴るように発せられた声にはびくりともせずに立つシャダは小さく首を振った。
「が黒竜に気付くまでは駄目だ」
彼女が、己のカーの存在に気付かない限りは。そして自分自身の意志でカーを制御しようと思わない限り、封印を解けば黒竜は暴走してしまうだろう。
己が主を守るために。
だがそれではいけないのだ。
神官がカーを操るのは、己を守るためではない。
神の化身たるファラオを守るため。
戦うのは己のためではない。あくまでファラオのためなのだ。
「今のではファラオをお守りするためのカーは呼べはしない」
冷やかな言葉はゆっくりと続く。
「そして君は彼女の秘密を知ってしまった」
後に国を守る柱となるであろう魔物。
今はただ危険な魔物。
禁じられた術をかけられた少女の秘密。
守られていた、無自覚な刃の秘密。
「これは、現在我々が抱えている問題の中でも特に重要なもので」
静かな湖面のような瞳が、ひたとジョーノを見る。
「本来部外者に話していいような事ではないのだ」
言いたいことはわかるか?
言外に言う瞳。
全身が震えるような感覚。
ああ、めまいがしそうだぜ。
拳を握り締めながら、ジョーノは思った。
全て忘れて何も見なかったふりをして、何も聞かなかったふりをして生きていけ。
つまりそういうこと。
それが出来ないならば全て強制終了だ。
「私は君がいなくなって悲しむを見たいとは思わないが……君はどう思う、ジョーノ」
「奇遇だな、シャダ様。俺もわざわざあいつを悲しませようなんて思わない」
にやりと笑って答えた彼は、「けれど」と続けた。
「あいつは俺がいなくなっても悲しんだりしねぇよ。そして俺は、いなくなったりしない」
挑むようにシャダを睨みつける瞳。
無言の時間はほんの僅か。
それでもジョーノにはひどく長いように思えて仕方なかった。
静寂を破ったのは、遠くから聞こえる叫び声と静止の声。
だんだん近づいてくるそれに、ジョーノは思わず振り返った。
が目を覚ますと、そこはシャダの居住区画にある一室で、部屋の入口にはいつもシャダの近辺を警護している兵士がいた。
意味がわからずに数度瞬きをして起き上がると、なんだか腹部が痛む。
そこで昨夜の事を思い出し寝台から飛び降りた。
「!!」
咎めるように声を上げた兵士を無視して駆け出すと、後ろから猛烈な勢いで追いかけられた。
「げっ」
思わず声をあげ、スピードを速める。
「ちょっと追いかけて来ないでよ! 別に悪さしようって訳でもないんだから問題無いでしょう!?」
「!! 部屋で大人しくしておくように言われたのはシャダ様だ!! いいから戻れ!!」
「こっちはそのシャダ様に会いに行きたいのよ!!」
「いいから止まれ!!」
顔見知りの兵士は叫ぶ。
けれど図体の大きい彼よりもに方が幾分か足が早く廊下を曲がればそこはシャダの部屋だった。
聞きたい事が、否聞かなければならない事があった。
どうしても知らなければならない。
握りしめた指先は冷たく冷えていて、自分でも笑ってしまう。
緊張しているのだと感じるのは、いつぶりだろうか。
「シャダ様!!」
叫ぶように名前を呼び、転がり込んだ。
「!!」
彼女の名前を呼ぶ声はみっつ。
追いかけてきた兵士と、室内にいたシャダ。そしてシャダと共にいたジョーノ。
「じょ、ジョーノ……!! あんたっ!!」
幼なじみの姿を認めると、の顔には怒りが浮かぶ。
「あんた良くもやってくれたわね? どういうつもりなのか、説明してもらうわよ」
ひきつった表情でジョーノはを見る。
何故ここに来た、と言いたげなその顔に、は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「何が言いたいのか知らないけど、後できっちり聞いてあげるわよ。今はあんたよりも大切な用事があるからね」
その言葉が終ると同時に口を開いたのはシャダだった。
「一体何事だ!? 、王宮ではそのように走るなと言い聞かせた筈だが、忘れたのか?」
辺りの気配を引き締めるようなその声に、は背筋を伸ばしてシャダを見る。
「忘れてなんか、いません! けれど、何よりシャダ様に聞きたい事があったんです!!」
赤い瞳には苦しげな色が浮かぶ。
「シャダ様は私に……」
「待ちなさい、」
小さく息を吐いて、シャダはを追いかけてきた兵士を見る。
「お前は下がっていなさい。ジョーノ、お前もだ」
「なん……っ!?」
口を開きかけたジョーノはを追いかけてきた兵士に腕を掴まれ、部屋から出て行く。
それを見送って、はシャダを見た。
「何故ここにジョーノがいるんですか?」
「お前を連れてきたのが彼だったので、少し話をしていたのだ。それで、私に聞きたいこととは?」
それ以上問う事を許さない口調でシャダは話の続きを促した。
が口を開くのを待ちながら、心のどこかで予感する。
彼女はおそらく、気付いたのだろう。
自らの心に住む魔物の事に。
「シャダ様は、私のカーを封印なさったんですか」
案の定、前置きもなく飛び出した言葉に思わず苦笑する。
「どうしてそう思う?」
勘だけは鋭いと思っていた。だが、これは勘だけで出るような答えではない。
は数秒俯いて、顔をあげた。
「私、すごく小さい頃、よく空想遊びをしていました」
その空想の中で飼っていたのは黒い鳥の雛。
小さな手の平に収まるほど小さな黒い鳥の雛は、いつか大鷲になってその背に自分を乗せて、砂漠を越えてどこか遠い異国へと連れて行ってくれる。
水の国、森の国、妖精の国。見たことも無いような、不思議な国へと。
「そんな、くだらない空想遊びです。今思えば恥ずかしい限りなんですけどね」
自分でも可笑しいのか、の顔には微かに笑みが浮かぶ。
「けど、どうやら私が飼っていたのは大鷲ではなかったようです」
二、三度の瞬き。
赤い瞳は優しく微笑み、は困ったように言った。
「それは、鳥ではなく、竜でした」
の言葉に、シャダは目を閉じた。
小さな小鳥でなく
大空を飛翔する巨大な黒竜だった