とある昼のこと
空は高く晴れて、いつもと変わらぬ日差しが砂漠を、街を、そして王宮を焼いていた。
強い日差しから守られた室内で、彼女は自分の師である男に向かって頭を下げた。
「では、私は明日まで実家の方へ帰らせて頂きますね」
久々に帰る家。
入宮してからそろそろ一年がたつ。
走り続けてきた、と思っていた頃、彼女は帰宅の命を受けた。
羽根を休めてこい、というのが、師匠からの言葉だった。
「王宮の事は忘れて、家族とゆっくりしてくるといい。ただし、帰りはあまり遅くならぬように」
優しく頬笑む師匠に、わかってますよ、と彼女は言う。
「私の事よりシャダ様こそ。確か今日はこの後宮廷裁判でしたよね? 何も忘れ物してませんか?」
覗き込むように上目遣いで問われ、シャダは苦笑する。
「私も子供ではないのだから、何もそこまで案じずとも……」
「……言ってるそばから曲がってます、マント」
指差して彼女は師匠を見る。
無言の「大丈夫ですか?」に、シャダは諦めたような表情で弟子の肩に手を置いた。
「気にするな、。大丈夫だ」
「ならいいんですけれど……何かあったらすぐ呼び戻してもらって構いませんので」
神官としての業務は完璧にこなす彼は、日常生活においてしばしば抜けている所があった。
はシャダの弟子になってすぐそれに気付き、以来今まで何かと気を配ってはきたのだが……
自分が来る以前のシャダを知らないだけに、大丈夫だろうかと少し不安になる。
しかもこんな時に限って宮廷裁判ときた。
千年錠を忘れるなんて事は無いだろうが、微妙にズレた状態で登場、という事にならない事を祈るばかりだ。
(ま、アイシス様もいらっしゃる事だし、何かおかしかったら先に注意してもらえるよね!)
心の中でそう呟いて、もう一度シャダに挨拶をしてから、部屋を後にした。
肩からかけた荷物を抱えるようにして歩きながら城門を目指す。
門の外では先に外出許可を貰っている幼なじみで、王宮兵士のジョーノが待っているはずだ。
久々に帰る家はどうだろう。
こまめに届く母からの手紙で近況は知っているつもりだが、やはり実際に会うのとは訳が違う。
そして何より、親友の事が気になる。
入宮して、一度も会いに行けなかった。
手紙を出そうにも、人から隠れるように生活している彼女にはそれができなかった。安否を知ることどころか、連絡も取れない。
誰も知らない、彼女。
やっと会える。
そう思うと、心が落ち着かない。
けれど、もしかしたら彼女はもういないかもしれない。
一年の間に旅に出て、いつもの場所に行っても彼女はもういないかもしれない。
もしもそうだったら……
「二度と、会えないんだろうな」
呟きは音となって零れた。
浮かぶ笑みは、自分を嗤うようなそれ。
入宮が決まった時、自分は彼女に言った。
一緒に行こう、街に行こう。
決して首を縦に振ることの無かった彼女は、「が来るのをここで待っているから」と笑った。
その言葉は今も有効ですか?
その問いに答えてくれる人は今はいない。
代わりに目の前で開かれた門の向こうで良く知った顔が笑っているのが見えた。
「おせぇぞ、!」
大声で自分を呼ぶ幼なじみに目眩がした。
「ちょっと、ジョーノ!! 恥ずかしいでしょ! やめてよね!!」
思わず言い返して自分も彼に劣らず声を張り上げていた事に気付く。
無言で睨むと、素知らぬ顔で口笛を吹いた幼なじみは、彼女が肩から掛けていた荷物を奪う。
「持ってやるよ」
にやりと笑った彼をまた睨んで、は「当然よ」と呟いた。
このやりとりすら懐かしい。
おかえり、と言った幼なじみの言葉に自然と顔がほころんだ。
城門の外へ出ると、それだけで街の喧騒が近くなる。
身体がすっとそれに馴染むのを感じた。
変わらない街は懐かしく、思わず辺りを見渡した。
それは多分、傍から見れば田舎から出てきたばかりの人間のする事かもしれなかった。けれどジョーノは何も言わずそんなを見ている。
行くぞ、と歩きだした彼の横で、そわそわしている彼女は言った。
「なんか……変な感じ……」
「そうか?」
首を傾げるジョーノにこくりと頷く。
「ぴったり当てはまらないって言うか……」
良く知っている街なのに、自分だけ浮いているような感覚。
「俺にはわかんねぇや。お前、久々すぎるからそう思うんだよ」
苦笑したジョーノは釈然としない様子のを見る。
お前が変わったんだよ。
その言葉を飲み込んだ。
一年前よりも確かに大人びた顔。王宮で学んだ彼女は、確かに成長して今ここにいる。
変わらない声に変わらない表情、変わらないやり取り。
けれど確かに変わった何か。それは多分、目に見えないもので、なのに確かに感じる事のできるもの。
また抜かされたかな、と思いながら、ふと両親との会話を思い出した。
「そういやちょっと前にお前目当ての客がうちに来たらしいぜ?」
「あーら、おじ様方が私目当てなのは今に始まった事じゃなくてよ?」
ふふん、と自慢気に笑う幼なじみはやはり相変わらずで、思わず脱力感が襲う。
お前じゃなくて酒が目当てなんだ、とはあえて言わない。
「ばっか、オッサンじゃねーよ。だからお袋も覚えてたんだろ」
「若者があんたんちの店に来たの!? うわ、珍しい!!」
さりげなく失礼な発言が飛び出したがそこは黙殺。あぁ、俺ってえらいなぁ。
人知れずジョーノは自分に拍手をした。
「お袋曰く、頼りがいのありそうな男前、だとさ。お前どこで引っ掛けたんだ? 店に出てたのとかもう一年以上前だろ?」
確かに神官採用の試験があるとわかってからは、勉強に専念するため、酒場の手伝いはしなくなった。
「まぁ……確かに。つか、男前が訪ねてくる程私って人気あったんだー。なんか感動」
一体どんな男が来たんだろう、とにやにやするを呆れたように見て、ジョーノは息をついた。
「まぁ、お袋の言う男前だから当てになんねーけど」
「それでもあんたよりは素敵に決まってるでしょ」
そう言いながらばかにしたように幼馴染を見て、は瞬きをした。
「ジョーノ、また身長伸びた?」
確か前はもっと近くに彼の目があったと思うのだが……
「そうか? 自分じゃわっかんねーよ」
「自分のことでしょ、わかりなさいよ」
見上げて、呟くように言う。
自分ばっかりでかくなって。
その一言は胸にしまいながら。
追いかけて、追いかけて。
王宮まで行ったのに、ジョーノの背中はどんどん大きくなる。
悔しくてもっと上を目指すのに、追いつけない背中。
次に会うときは必ず、追いついて並んで物を見つめる事のできる人間になってやる。
胸の内で小さく決意して、家路を歩いた。
そういえば、と彼女は口を開いた。
「前さ、まだ王宮に入る前、紹介したい人がいるって言ったの覚えてる?」
そんな約束をしたような気もする。
あの時のがあまりに印象的で記憶に残っていた。
「あぁ。覚えてるぜ。お、やっと会わせてくれる気になったのか?」
にやりと笑うと、まぁね、と頷いた彼女は言う。
「今夜、大丈夫?」
「今夜って……昼間じゃ駄目なのかよ」
思わず問い返す。
最近は盗賊の王を名乗る盗賊が近辺で暴れているという話もある。いくら平和な国だからと言って危険が全く無いという訳ではない。
「明るいうちに行きたいのは山々よ。けど、母さんに何て言うの? ちょっくら砂漠に出て行きます、なんて言おうもんなら、何が何でも止められるに決まってるじゃない。そうじゃなきゃ卒倒しちゃうわ」
「さば……!? お前の友達は砂漠の何なんだよ……」
顔を強張らせるジョーノには笑う。
「言ったはずよ。凄く可愛い女の子だって。何、あんた夜の砂漠が怖いの?」
「お前、当り前だろ?」
夜の砂漠は昼間眠っている獣たちも動き出す。闇にまぎれて毒蛇や蠍が現れても気付くことができずに噛まれてしまえば命に関る。獣に襲われたって同じだ。
それに、動物ならまだいい。盗賊に襲われてしまえば、ジョーノ一人ではまず勝ち目は無いだろう。
まさかもそれが解らない程子供では無いはずだ。
「大丈夫よ、ジョーノ。私、キサラに会いに行く時は絶対安全なんだから」
一体どこからやって来るのか全く根拠の伺えない自信に満ちた笑顔に、彼はひどく不安になった。
「だから絶対、誰にも言わないで。絶対誰にも見つからないようにね。わかった?」
至って真面目なの言葉に戸惑いながらも頷くが、それでも不安を拭い去る事は出来ない。
溜息をついたジョーノは今晩の事を思うと気が滅入るような気がしたが、気を取り直したように尋ねる。
「えーと、その、キサラっていうのがお前の友達の名前か?」
名前すら今まで聞いていなかったのを思い出した。
大体どんな人物なのか想像もつかないが。
なぜ凄く可愛い女の子が夜の砂漠いるっていうんだ。
「そうよ。……会うの、もう一年ぶりになるんだ……」
ぽつり、と漏れたの言葉にジョーノは口を閉ざす。
不安が色濃く表れた声はゆっくりと続けた。
「キサラ、いなくなってたらどうしよう……」
何も約束していなかったの、と彼女は言う。
「一年も会えないなんて考えなかった。待ってる、って約束……したんだけどさ」
「おい、約束したんだろ?」
らしくもなく萎れたを見ているのが嫌で、ジョーノは口を挟んだ。
「なら信じてやれよ。そいつは、いつ会えるのか解らなくても待ってるって言ったんだろ?」
きょとんと見上げるに向かい、励ますように笑顔を作る。
「信じねぇと男じゃねぇぞ?」
「……ばかだね、ジョーノ」
小さな間のあと、は瞬きをする。それは、次に笑顔に変わった。
「私は、男じゃないよ?」
「それは見た目だけだろ?」
言い返した言葉は、彼女の拳で強制終了となった。
駆け出す準備は整っている。