story-1
賑やかな声にくすぐられて目を開けると、視界にとびこんできたのは見覚えの無い天井。
思わず肌が粟立つ。全身がこわばり、嫌な汗がどっと噴き出してきた。
ほんの一瞬だけ感じた目覚めの爽快感は今やかけらすらも残ってはいなかった。
の頭の中で警報が赤ランプを光らせる。
逃げないと、逃げないと。早くここから逃げないと。
それは必要以上にうるさく、早く帰らなければ、と思う程に体は動かなくなる。
あぁ、誰か助けて。
柄にもなくそう思った瞬間、背後から声がかけられた。
「あ、目が覚めたんだね。気分はどう?」
とたん、世界の音が全て消えたような気がした。
瞬間、の世界は視覚で捉えられるもの以外の全てが無になり、一瞬は永遠にも似た冷たい手で彼女を抱く。
そして意識は声になって時間を動かした。
その声は悲鳴にも似ていた。
声量は大きく、けれど低い。
追い詰められた猫が、尻尾を膨らませて全身で威嚇してくる様子に似ていた。
ただし、その手にあるのは鋭い爪ではなく鋭利なナイフ。護身用にしては少しばかり物騒すぎるんじゃないだろうか。
初めて会うはずの少年は、まさしく猫を思わせる金色の瞳にあふれんばかりの怒りと憎しみをたたえてブルーノを睨みつけていた。
罵倒する言葉はとてもじゃないが少々過激すぎ、ましてや龍亜や龍可に聞かせるのは憚られた。
敵意は無いのだと反射的に両手を上げ、もしかしてここで刺されて人生おしまいなんだろうか、と不吉な予感が彼の胸をよぎる。
いくら記憶が無いとは言え、それは勘弁してほしい。
「あ、あの、落ち着いて! ね、ちょっと落ち着こうよ!」
努めて冷静に、優しく言ってみるが効果は無いかもしれない。冷や汗が頬を伝ったとき、駆けつけたクロウと遊星が両側から少年を取り押さえた。
二人の息はぴったりで、叩き落とされたナイフがブルーノの足元に滑ってくる。慌ててそれを拾って二人を見れば、クロウが彼をを宥めているところだった。
「落ち着けっ!! こいつは敵じゃない!! 落ち着け!!」
少年の細い肩を掴んで言うクロウの声は、どこかマーサハウスの子供たちへ語りかける時と似ている。
「お前に危害を加えるような奴じゃないんだ!」
怒鳴るような言葉に、と呼ばれた少年はだんだん息が落ち着いてくる。
「よしよし、大丈夫だから。落ち着け、うん」
それに合わせてだんだん優しく言うクロウの声音は、子守唄のようだった。
「なんで最初に言ってくれなかったんだよ……」
「お前寝てただろ。あんな汚い部屋に放置できるわけないじゃないかよ。連れてくるしか無かったんだ」
「じゃあどうして側にいてくれなかったんだよ。そしたら、こんな事しなかったのに」
「あのなぁ……もういいから、ブルーノに謝ってこい。初対面であれは流石にお前が悪い」
「……わかったよ……」
クロウに促され、不服そうな表情でブルーノの所へやって来たは、これまた低い声でぼそりと一言。
「ごめん」
ぺこりと下げられた金色の頭は、さっきの威嚇する猫と同一人物には見えない。
「えと……うん。大丈夫だよ、僕はなんともないし」
少しばかり拍子抜けして頷けば、は顔をあげてじっとブルーノを見つめる。
とろりとしたはちみつ色の目が妙にじっと彼を見つめ、そしてくるりとクロウを見た。
「どこから連れてきたの? こいつ、毛色違いすぎないか?」
「こいつじゃなくてブルーノだ」
言い聞かせるように答えるクロウは、誰に説明する時も使う、もはやお馴染みの言葉でブルーノの紹介をした。
「牛尾に頼まれて預かってんだよ。こう見えても一流のプログラマでDホイールの整備に関しちゃピカイチなんだぜ」
「へぇー。見えない」
少し驚いたようにブルーノを見るを呆れたように見て、クロウは溜息をひとつ。
「そんな事より! お前あの部屋はなんとかならないのか? あれじゃあまるでゴミ溜めだ。男四人の所帯より汚いってどういう事だよ。お前、一応女だろ?」
母親が子供に言うように。けれどそんな事よりも、ブルーノはその最後の言葉に目を見開いた。
「……おんなの、こ?」
思わず指差して呟けば、当たり前だろ、と言わんばかりのクロウと、明らかに機嫌を悪くしたような。
四方八方に暴れまくっている短い金髪。スラリとした身長と女性らしい凹凸の無い身体。
ぶっきらぼうな喋り方や、立ち居振る舞いはどう見ても女性というには少年に近い。確かに中性的だとは思ったが、まさか女の子だとは思わなかった。
「ほら、クロ兄が余計な事言うから」
「余計じゃねえだろ」
「余計だよ」
ぶすりと言い返してうな垂れた姿は、なぜか小さな子供のようだった。