かくして竜は再び眠り

 ただの興味は時に災いになる、と。
 忘れていた自分を呪いたい程だ。

 立ち上がる事も出来なくなる程、激しい訓練をした覚えはない。
 だが、目の前の娘は地面にへばりついたままでこちらを睨み付けた。
 紅玉のような赤の瞳には言葉にせずとも伝わる怒りが溢れている。
 その、歯向かってこようとする意志は認めよう。
 だが、身体が付いて来ないのでは意味が無い。
 つい先日の試験で彼女に合格の証を渡したのはまさに自分だが、それすらも忘れたい過去だ。
 シャダめ、計ったか。

 この娘には強大なヘカと、稀に見る強力なカーが眠っている。
 そう言ったのは奴だが、こちらから言わせれば、全くそうは見えない。
 役にも立たない、たたの小娘だ。
 こんな有様で本当に、

「お前は、何の為に神官を志した。これでファラオをお守りできると思っているのか」

 万一の有事の時に、これでは敵と戦う事もできまい。
 そう続く筈の言葉は、音になることは無かった。

 こちらを睨み付ける娘の瞳がきらりと光ったかと思えば、とたん彼女を中心に風が渦を巻く。

「!?」

 ゆっくりと立ち上がる様子を見れば、まだそれだけの余力があったのかとも思ったが、明らかに様子がおかしい。
 開かれた瞳はらんらんと輝き、こちらを見る眼には生きた人間の気配が無い。
 睨み付ける目はそのままに、だが確かにさっきまでとは違う気配が彼女を包んでいた。

 そして彼女から立ち上る光の中に現われたのは、漆黒の竜だった。

「これは……!」

 息を飲むと、竜は鳴いた。
 地が震えるような咆哮に、身動きの取れない神官見習い。
 全く腑甲斐ない。

「……シャダの言っていたものは、これだったのか……」

 強力なカーと、強大なヘカを持っている。
 訓練さえすれば、神官としてもかなりの力を手に入れるだろう。

「しかし……」

 目を見開きこちらを睨み付ける少女は、どう見ても正気ではない。
 カーを操るのではない。
 カーに操られている。
 それで王宮神官など、笑わせる。

「俺が憎いか」

 声を上げると、少女の器は吠えた。

「ふん。あくまで獣でしかない、か」

 ならばこちらは全力で倒すまでだ。
 剣を握りなおすと、思わず口元に笑みが浮かぶ。

「覚悟しろ」

 言い放つのと同時、闘技場の入り口から叫び声が届いた。

「止めるんだセト!!」

 声の主は走りながら少女のもとへゆく。
!」

 彼女の名を呼ぶのを聞いて、余計に可笑しくなる。
 知恵の神の名を戴いたにしては、この有様はあまりにお粗末ではないか。

「どけ、シャダ。その娘を、斬る」
「正気か!? 何を考えている!!」
「この娘は危険だ。無意識にカーを呼び出し、あまつさえそれに支配されるなど、神官にあるまじき事。放っておいても、やがて自滅するのが落ちだ」

 ならば、ここで終わらせた方が幸せではないか?
 怒りに顔を青くしているシャダには悪いが。いや、これはただ単にシャダがこの娘を気に入っているだけかな?
 まあ、やる事はひとつなのだから、結局はどちらも関係無いが。

「やはり、お前に任せたのは間違いだったな。は私が鎮める」
「できるものならな。お前にできなければ、俺が斬るまでだ」

 所詮、漆黒の竜を鎮めたところで、その後シャダがろくな目にあわない事は容易く想像できるが。

!」

 二度目の呼び声に、彼女はらんらんと輝く眼で睨み付けるようにシャダを見た。

「帰ってきなさい!」

 まるで茶番劇だな。馬鹿馬鹿しい。

「帰ってきなさい、

 ゆっくり近づいて差し出されたシャダの手。
 赤い瞳の光は変わらず、ただまっすぐにシャダを見つめる。まるで、彼を品定めするように。

 竜が、吠えた。

 震える空気は、動きを封じる。じりじりと肌を焼く熱は、太陽とその照り返しかと思っていたが、どうやらそれだけでは無いらしい。
 漆黒の竜の叫びと同時に熱は上がり、あたりを熱く焦らしてゆく。

……さあ、戻ってきなさい」

 けれど、静かなシャダの声はその熱さえ吸い取るようで、何かに似ていると思っていたその光景は。

「ああ、猛獣と猛獣使いだな」

 やっとそう一言、答えが出た。

 辛抱強く繰り返されるシャダの声は、果たして彼女に届いているのか。
 睨み付ける眼光がほんの僅か緩んだように見えた時、シャダは早口で何事か囁いた。

 どくん、とひとつ。娘の身体が大きく跳ねて、差し出されたシャダの腕の中へぱたりと倒れた。

「何をした?」

 問うとシャダは、娘の身体を支えたままこちらを見て静かに答える。

「何も。ただ、彼女の心を少し封印しただけだ。」

 次にあの竜が現れたら本当に喰い殺されるかもしれないな、と小さく肩を揺らす。

「セト、彼女は私が預かろう。お前に任せていては心配だ」
「馬鹿な事を。心に術をかけるなどしたからには、最後までお前に面倒を見てもらう」

 勿論だ、と頷いて去ってゆく後ろ姿に「本当に馬鹿な男だ」、と呟いた。
 あんなお荷物は、こちらから願い下げだ。

少女が牙をむいた時
何が起こるか考えてみたまえ