いつもの道端に、彼は立ち尽くしていた。
わたしは直接彼と会った事は無かったけれど、遊星の話で彼の事を聞いていたから、自分の目の前にいる青年が誰なのかすぐに解った。
ただ解せないのはわたしの前に立つ彼の、その姿。
薄汚れた彼の、まるで捨てられた犬のような有様は、遊星の語った彼の姿とは程遠く、この人が本当に自分の思っている人物に違いないのかと少し考えてしまう。
何より、彼の代名詞と言っても良いはずの巨大なDホイールが見当たらない。
少し迷って、先に口を開いたのは、わたしの方だった。
「パラドックス……さん?」
その問いかけに、彼は金色の瞳を二、三瞬きさせてわたしを見る。どこか焦点の合わない彼の視線と、まるで仮面のように固まったままのその表情に僅かばかり不安を覚えて、わたしは一歩彼に近づいた。
「パラドックスさん、よね?」
二度目の問いに、彼の瞳が微かに揺れたのを見て、わたしは安心した。その瞳の揺れは、目の前の青年が「ただ息をしているだけの人形ではない」と示すのに、十分だったから。
逆説の名をその身に戴いた青年は、遊星たちとの戦いに負けて、その行方は誰も知らなかったし知りようも無かった。
今まさに呆けたように立つ彼は、絶望しているんだろう。
そう推測するのはとても簡単で。
自らの世界を再生させるという目的のために手段を選ばなかった彼が、その目的を失った今、途方も無い虚無に襲われているのだという結論はすぐに出た。
わたしは、彼の事を何も知らない。
彼は、わたしの事すら知らないだろう。
何も知らないわたしにも、同じ時間と空気を介して彼の絶望が痛いほどに伝わってくる。
誰にだって守りたいと願うものはあるのだと、わたしは良く知っている。そして、その願いが必ずしも叶うとは限らないとも。
締め付けられるように胸が痛むのは、彼の想いがあまりに重くて悲しいから。
この世界の未来は破滅である。
彼が告げた受け入れ難い結論。
今、こんなにも文明は発達して、世界は豊かさを極めて当然のようにそれを享受しているのに。誰もがこの豊かさの永遠を信じているのに。
豊かに繁栄した文明は永劫に続くのだと、誰もが無意識に思っているのに。
人々が望んだ今の繁栄は、間違っているのかしら?
見上げた彼の瞳は、太陽の光を封じ込めたような金。
彼が幸せだったなら、それは輝くように明るい光を放っていたに違いないのに、今は輝きを失ってしまっている。
かつて、この瞳が幸福に煌いたときがあったのかしら。それとも、この人は今までずっと、破滅の絶望と喪失の虚無ばかりを見つめて生きてきたのかしら。
……もしもそうなら、とても悲しい。
そう思った瞬間、思わずわたしは腕を伸ばして彼を抱きしめた。びくりと彼の身体が硬直するのも構わずに、彼を抱きしめる腕に力を込める。
自分よりもずっと身長の高い男の人を抱きしめる、なんていうのは少しおかしいかもしれない。傍から見れば、わたしが彼に「抱きついている」という表現のほうがしっくりくるだろう。
どうしようも無い身長差のせいで、わたしは彼の腰の辺りに両腕を回すので精一杯だったのだから。
それでもわたしは、彼を抱きしめたかった。
過去の全てを犠牲にしてまで、己の今を守ろうとしたこの青年が、たまらなくいとおしくて、哀しくて。
過去を修正すれば未来は救われるという、一見正しいように思える推論。
その推論を確かなものにするために、実験を実行に移した彼は、紙一重で全てを失ってしまった。
それこそ、最後の希望まで。
「ありがとう……」
そして、
「ごめんなさい……」
彼の身体に顔を埋めて、わたしは感謝と謝罪を口にした。
それに意味があるのかなんて、解らないけれど。
あなたの絶望を贄に、わたし達はここに幸福を築いている。
そして、わたし達の幸福を礎に、あなたの絶望は築かれる。